セポイの乱
セポイの乱は、1857年から1859年にかけて北インドを中心に発生した大規模な反英武装蜂起であり、東インド会社支配の転換点となった出来事である。インド人兵士セポイの叛乱を契機に、旧藩王や地主、農民、都市民など多様な層が参加し、東インド会社による植民地支配の矛盾が一気に噴出した。この蜂起はイギリス側では「Sepoy Mutiny」「Indian Mutiny」と呼ばれ、インドの民族主義史観では「第一次独立戦争」と位置づけられている。
名称と時期
セポイの乱の「セポイ」とは、東インド会社軍に雇用されたインド人歩兵を指す言葉である。叛乱は通常、1857年5月にメリトでの反乱勃発から、1859年まで続いた鎮圧過程を含めて捉えられることが多い。地域的には、デリー、アワド(オウド)、カーンプル、ラクナウ、ジャーンシーなど北インド内陸部を中心に激しく展開した。
背景 ― 東インド会社の支配拡大
東インド会社は軍事力と外交を背景にムガル帝国の衰退に乗じて支配領域を拡大し、19世紀前半にはインド亜大陸の大部分を掌握した。1833年の改革以降、会社は領土行政と軍事に特化し、商業活動は次第に縮小していったが、その過程でインド社会には重い地税負担や統治機構の官僚化が進み、地方支配層や農民層の不満が高まった。こうした構造的矛盾は、のちのインド大反乱へとつながる前段階でもあった。
土地制度と地方社会の不満
東インド会社は財政基盤を強化するため、ベンガル地方ではザミンダーリー制を、南インドや北西インドではライヤットワーリー制を導入し、高率の地税を課した。これにより在来の地主や村共同体のあり方は大きく揺らぎ、土地を失う農民が増加した。アワド併合などによって旧藩王や在地貴族も領地と特権を奪われ、都市の職人や商人も、イギリスから流入した工業製品やイギリス産業革命とインドの構造変化によって生業を脅かされた。
インド兵セポイと植民地軍隊の構造
セポイの乱の主役となったセポイは、東インド会社軍の下級兵士として大量に採用されたインド人である。彼らは一定の給与や年金を受け取ったが、人種差別的な待遇、昇進機会の制限、遠隔地への転戦命令など、多くの不満を抱えていた。また、従来の地域共同体や宗教的慣習から引き離され、上官であるイギリス人将校との文化的断絶も大きかった。こうした条件が揃い、セポイは反英感情と将来への不安を蓄積していった。
直接の契機 ― 新式銃カートリッジ問題
セポイの乱の直接の引き金となったのは、新式エンフィールド銃の紙製カートリッジに関する噂であった。カートリッジには牛脂や豚脂が塗られており、使用にあたって歯で嚙み切る必要があると信じられたため、牛を神聖視するヒンドゥー教徒と豚を忌避するイスラーム教徒の宗教的禁忌に触れると受け止められた。東インド会社側は噂を否定し、一部の是正措置をとりながらも、命令に従わないセポイを処罰したため、軍隊内部の不信感は決定的なものとなった。
反乱の勃発と拡大
1857年5月、北インドのメリト駐屯地で処罰に反発したセポイが蜂起し、その兵士たちはデリーへ進軍して旧ムガル皇帝バハードゥル・シャー2世を擁立した。この動きは各地に波及し、カーンプルやラクナウ、ジャーンシーなどで旧藩王や在地支配層、農民、都市住民が合流して武装蜂起を展開した。アワドでは併合政策への反発が強く、旧支配層や宗教指導者が反乱を支え、地方社会の対英抵抗運動としての性格を強めていった。
戦闘の推移と苛烈な鎮圧
イギリス側はパンジャーブ地方のシク教徒やグルカ兵など、会社に忠誠を保った部隊を動員し、増援部隊を本国からも派遣して反撃に転じた。デリーやラクナウの攻防戦は激烈を極め、双方の住民・兵士に多数の犠牲者が出た。反乱側によるイギリス人や協力者への攻撃に対して、イギリス軍は報復として公開処刑や村落の破壊など苛酷な鎮圧策をとり、1858年以降、組織的抵抗は次第に鎮圧されていった。
東インド会社支配の終焉と統治体制の転換
セポイの乱を受けて、イギリス本国政府は1858年にインド統治法を制定し、東インド会社の商業活動停止を経て残存していた統治機能も引き継ぎ、会社支配を終わらせた。これによりインドは国王直属領となり、ロンドンのインド省と現地のインド総督(のちインド総督兼インド帝国皇帝の代表)が統治を担う体制に再編された。また、軍制改革によりインド人兵士の比率が抑えられ、宗教・カースト別の分割統治が意図的に強化された。
宗教・社会政策の見直し
叛乱で露呈した宗教感情の重大さを踏まえ、イギリスは以後、ヒンドゥー教やイスラームの慣習への直接的な介入を抑制する方針を示した。キリスト教宣教師の活動は続いたものの、公式には信仰と慣習の尊重が謳われた。土地政策においても、あまりに急進的な併合策は避けられるようになり、在地支配層との協調を重視する方向へ転換した。これは植民地統治下のインドと大反乱全体の文脈でも重要な変化である。
インド民族運動への影響
セポイの乱自体は統一された指導部や綱領を欠き、地域ごとに目的や背景を異にする蜂起の総体であったため、近代的な国民国家形成という意味では限定的な成果にとどまった。しかし、その記憶はのちのインド民族運動において象徴的に位置づけられ、19世紀末のインド国民会議派の形成や20世紀の独立運動のなかで、「第一次独立戦争」として再解釈された。こうして反乱の経験は、のちのインド大反乱や地域紛争、たとえば北西部のカシミール問題など、植民地支配とその遺産を考えるうえでも重要な歴史的起点として記憶され続けている。