セオドア=ローズヴェルト
セオドア=ローズヴェルトは、アメリカ合衆国第26代大統領であり、20世紀初頭の合衆国の進歩主義改革と帝国主義的膨張を象徴する政治家である。彼は若くして政界に進出し、ニューヨーク州知事、副大統領を経て、先任大統領マッキンリー暗殺後の1901年に大統領に就任した。国内では「スクエア・ディール」と呼ばれる一連の社会・経済改革を推進し、国外では「ビッグ・スティック外交」によってカリブ海や太平洋地域への影響力拡大を進めた人物として知られる。
若年期と政界進出
セオドア=ローズヴェルトは1858年、ニューヨークの富裕な家庭に生まれた。幼少期は病弱であったが、鍛錬によって体力を養い、ハーバード大学で学問とスポーツに励んだ。大学卒業後は歴史家・著述家として活動するとともに、共和党から州議会議員に選出され、若き改革派政治家として頭角を現した。その後、ニューヨーク市警察委員会や連邦政府の海軍次官補などの要職を歴任し、行政能力と行動力を示していった。
アメリカ=スペイン戦争とラフ・ライダーズ
1898年のアメリカ=スペイン戦争において、セオドア=ローズヴェルトは海軍次官補の地位を辞し、義勇騎兵「ラフ・ライダーズ」を率いてキューバ戦線に従軍した。サンファン・ヒルの突撃などでの勇敢な行動は広く報じられ、この戦争は日本語では米西戦争とも呼ばれる。戦場での活躍は彼の人気を一気に高め、その後の政治的出世の重要な足掛かりとなった。
大統領就任とスクエア・ディール
マッキンリー大統領が1901年に暗殺されると、副大統領であったセオドア=ローズヴェルトが憲法の規定に従って大統領に昇格した。当時42歳であり、史上最年少の大統領であったとされる。彼は労働者・農民・中産階級・企業の「公平な取扱い」をうたう「スクエア・ディール」を掲げ、産業資本主義がもたらした格差や独占を是正しようとした。この理念は、後の進歩主義改革の象徴的スローガンとして記憶されている。
反トラスト政策と社会改革
セオドア=ローズヴェルト政権は、巨大独占企業に対する連邦政府の介入を積極的に進めた。特に鉄道や石油などの分野で、反トラスト法にもとづく訴追を行い、企業結合の解体や料金規制を実施したことで「トラスト・バスター」と呼ばれた。また、労働争議に仲裁者として介入し、労働者の最低限の権利を認める姿勢を示したことは、工業化の進むアメリカ社会における国家の役割を拡大させる契機となった。
自然保護政策と国立公園
セオドア=ローズヴェルトは熱心な自然愛好家でもあり、大統領として広大な森林・自然景観を保護する政策を展開した。彼の任期中、多数の国立公園・国定記念物・野生生物保護区が指定され、合衆国の自然保護制度の基盤が築かれた。資源開発を完全に禁止するのではなく、計画的な利用と保護を両立させるという考え方は、その後の環境政策にも影響を与えた。
- 国立森林の大幅な拡大
- 野生動物保護区の設置
- 自然保護団体との連携による啓発活動
帝国主義外交と太平洋・カリブ海
セオドア=ローズヴェルトは、「ビッグ・スティック外交」と呼ばれる強硬かつ現実主義的な外交方針で知られる。アメリカはパリ条約(1898)の結果として、スペインからフィリピン、プエルトリコ、グァムなどを獲得し、さらに事実上のフィリピン併合を進めた。これらの動きは、合衆国が太平洋とカリブ海における帝国主義的列強として台頭する過程の一部であった。
ハワイ・カリブ海と運河建設
ハワイ併合によって太平洋上の要衝を手に入れたアメリカは、パナマ運河建設を通じて大西洋と太平洋を結ぶ海上交通の支配を強めた。セオドア=ローズヴェルトはこの運河建設を国家的事業として推進し、ラテンアメリカ諸国に対してもモンロー主義を補強する「ローズヴェルト修正」を唱えて干渉を正当化した。こうした政策は、アメリカの国際的地位を高める一方で、帝国主義的干渉として批判も招いた。
晩年と歴史的評価
1909年に退任した後も、セオドア=ローズヴェルトは1912年大統領選で進歩党候補として再び出馬し、二大政党制に挑戦するなど、政治的影響力を保持し続けた。第一次世界大戦期には強い参戦論を唱えたが、自身の健康悪化と息子の戦死などもあり、1919年に死去した。彼は、産業資本主義の矛盾に国家権力で対処しようとした進歩主義大統領として、また帝国主義的膨張を主導した指導者として、相反する評価を受けつつも、20世紀アメリカ史を理解するうえで欠かせない存在と位置づけられている。