スペイン九月革命|イサベル2世を倒した自由主義革命

スペイン九月革命

スペイン九月革命は、1868年9月に起こった政変であり、女王イサベル2世を退位に追い込み、19世紀後半のスペイン政治を大きく転換させた事件である。「グロリア革命(La Gloriosa)」とも呼ばれ、専制的な王政と腐敗政治に不満を募らせた軍人・自由主義政治家・市民層が結びつき、王権を打倒して新たな立憲体制と近代的な政治秩序を模索する契機となった。この革命の結果、暫定政府のもとで1869年憲法が制定され、外国王子アマデオの即位、さらにスペイン第一共和国の樹立へと続く「民主主義の6年間」が開かれた。

背景―イサベル2世体制への不満

19世紀前半のスペインでは、王位継承をめぐるカルリスタ戦争を通じて自由主義勢力と保守派が激しく対立し、女王イサベル2世の治世下でも政局は不安定であった。宮廷と政府は縁故主義や腐敗で批判され、政党も限られたエリートによる権力交代にとどまり、広範な国民の政治参加は進まなかった。さらに、財政赤字や鉄道建設ブーム後の不況など経済問題も深刻化し、都市の中産階級や労働者、地方の農民の間で王政への不満が蓄積していった。

軍事クーデタの伝統とプロヌンシアミエント

19世紀のスペイン政治では、軍部による挙兵宣言で政権交代を迫るプロヌンシアミエントが繰り返されていた。これにより、軍の将軍たちは政党以上に政局を左右する存在となり、政変はしばしば軍事行動を通じて始まった。1860年代には進歩党・民主党などの自由主義勢力が軍人と結びつき、イサベル2世体制を根本的に変革しようとする動きが強まっていった。

カディスでの挙兵と革命の勃発

1868年9月、提督トペテ、将軍プリム、将軍セラーノらがカディスで挙兵し、政権打倒を訴える宣言を発した。これがスペイン九月革命の直接的な出発点とされる。反乱軍の呼びかけは各地の軍隊や都市住民の支持を集め、政府軍は十分な抵抗を組織できなかった。決定的となったのはコルドバ近郊のアルコレアの戦いであり、ここで政府軍が敗北すると、イサベル2世はフランスへ亡命し、王権は事実上崩壊した。

暫定政府の成立と1869年憲法

王の不在となったのち、将軍セラーノを中心とする暫定政府が成立し、新体制の枠組みづくりが進められた。暫定政府はまず選挙を実施し、制限は残りつつも従来より広い層に政治参加の機会を与えた。選出された議会は1869年憲法を制定し、国民主権、信教の自由、言論・集会の自由、そして男性普通選挙に近い選挙制度など、当時のヨーロッパでも先進的な内容を盛り込んだ。この憲法のもとで、王を頂点としつつ議会主義を重視する立憲君主制が構想された。

アマデオ1世の招致と新王政の困難

暫定政府と議会は、空位となった王位を国内の旧勢力から切り離すため、外国王家から新たな君主を招く道を選んだ。その結果、イタリア・サヴォイア家出身のアマデオが選出され、1870年にスペイン王アマデオ1世として即位した。しかし、新王は国内基盤が弱く、旧ブルボン派やカルリスタ戦争を続ける保守勢力、共和主義者、さらには強い影響力をもつカトリック教会との対立に直面した。加えて、最も頼りとされたプリム将軍が暗殺されるなど、政局は一層不安定化した。

第一共和政とブルボン朝復活への道

度重なる政変と混乱のなかで、アマデオ1世は統治の継続が困難であると判断し、1873年に退位した。その直後、議会は王政を廃止して共和制を宣言し、スペイン第一共和国が成立した。だが共和政も内部分裂や地方反乱、社会問題への対応に苦しみ、短期間のうちに政権が頻繁に交代した。最終的に1874年、将軍マルティネス・カンポスが再びプロヌンシアミエントを行い、ブルボン家アルフォンソ12世を王に迎え、ブルボン朝王政が復活した。

スペイン九月革命の歴史的意義

スペイン九月革命は、短期的にはアマデオ王政と第一共和政の不安定さを生み出し、長期安定にはつながらなかった。しかし、この過程で制定された1869年憲法や普通選挙に近い制度は、近代的な市民的自由と議会制の理念をスペイン社会に根付かせる重要な経験となった。また、軍事クーデタに依存する政治文化の問題点も一層明らかになり、19世紀後半以降の政治勢力は、軍事介入に頼らない制度的な競争へと向かおうとした。こうしてスペイン九月革命は、ヨーロッパ全体で進行していた自由主義的改革や、イタリア統一などの国民国家形成の流れと呼応しながら、近代スペイン国家形成の重要な節目として位置づけられている。