シンハラ王国
シンハラ王国は、スリランカ島において古代から近世に至るまで連綿と存続したシンハラ人の王権と王国群を総称する語である。伝承上の建国者ヴィジャヤに始まり、アヌラーダプラ、ポロンナルワ、コーッテ、キャンディといった都城を中心に、仏教を国教として国家統合を進め、灌漑施設の建設や海上交易の掌握を通じて政治・経済・文化を発展させた。中世には南インド勢力の侵入と抗争、近世にはポルトガル・オランダ・イギリスの進出を受けつつも、王権は形態を変えながらも存続し、1815年のカンディアン条約による英領化をもって終焉した。島内社会は上座部仏教とシンハラ語を基盤に独自の文学・史書を育み、王はダルマに基づく支配理念を掲げた。
起源と民族的基盤
古い年代記は、北インド系の移住者ヴィジャヤ一行の到来と、先住のヴェッダとの融合を語る。言語はインド・アーリア系のシンハラ語で、実務・宗教・学知の場ではパーリ語が重んじられた。前3世紀、アショーカ王の仏教布教と伝えられる系譜に重なって仏教が定着し、僧院を中心とする学問と戒律が王権を正当化した。
アヌラーダプラ時代の展開
最初の長期王都アヌラーダプラでは、貯水池(タンク)と運河網の整備により乾燥地帯での稲作が安定し、王権は灌漑の維持管理を通じて領域支配を確立した。マハーヴィハーラやアバヤギリといった大僧院が都市空間を構成し、仏塔・石窟寺院・銘文が宗教と実務の両面で国家の記憶装置となった。対外的には南インドやインド洋世界との交易が行われ、宝石・象・香辛料などが流通した。
灌漑技術と都市景観
半乾燥の自然環境に適応するため、大規模な人工貯水池と用水路が築かれ、城門・仏塔・僧院・官衙が水利線に沿って配置された。王は水利の守護者であると同時に布施者として寺院を保護し、宗教的功徳と世俗的威信を重ね合わせた。
中世の変容:ポロンナルワからコーッテへ
11世紀のチョーラ朝の介入は、政治地図の再編を促し、首都は内陸のポロンナルワへ移った。パラークラマバーフ1世は「パラークラマ・サムドラ」と呼ばれる巨大貯水池を築き、農業生産と都城の繁栄を支えた。やがて勢力は西岸へ移り、港湾流通に近いコーッテが台頭した。ここではインド洋交易の活性化とともに、宮廷文化・仏教儀礼が洗練された。
インド洋交易と外交
コーッテ政権は、インド亜大陸南縁や東南アジア、中国との往来を通じて、象牙・宝石・高級木材などを輸出し、陶磁器・金属器・絹を受容した。海上交易の利得は王権財政を潤し、港市を核とする都市網の整備を後押しした。
近世:キャンディ王国と植民地勢力
16世紀、ポルトガルが海岸部に進出し、続いてオランダが覇権を奪取、18世紀末にはイギリスが台頭した。低地の沿岸部が次第に欧州勢の支配に組み込まれる一方、内陸のキャンディ王国は山地地形と連合関係を活かして長く独立を保った。しかし19世紀初頭、宮廷内の対立と外交の失策が重なり、1815年に王侯・僧侶らがカンディアン条約に署名してイギリスへの主権移譲が成立し、シンハラ王国の時代は終焉した。
王権理念と宗教装置
王はダルマラージャとして仏教の守護を担い、歯骨寺院(スリ・ダラダー・マーリガワ)の守護者であることが正統性の核心となった。王権儀礼・仏教祭礼・布施経済が結びつき、政治的服属と宗教的功徳が相互補強した。
社会制度と土地・労役
社会は職能・出自に基づく階層秩序を持ち、王領・寺領・貴族領が錯綜した。灌漑維持や軍役にかかわる奉仕義務(ラジャカリヤ)が課され、村落共同体は水利と農耕の単位として機能した。こうした制度は王権の交替や外勢の圧力下でも持続し、地域社会の再生産を支えた。
言語・文学・史書
シンハラ語は行政・文学の媒体として発展し、パーリ語は仏典学を担った。年代記『マハーワンサ』や『ディーパワンサ』は王統と仏教の歴史を編み上げ、石碑・銘文は治水・寄進・徴税の実態を伝える。詩文(サンデーシャ)などの宮廷文学は、宗教空間と王権の結節点を美学的に表現した。
南インド勢力・島北部との関係
南インドのチョーラ・パーンディヤなどの勢力は、交易路と軍事介入を通じて島の政治に影響を与えた。島北部のタミル系政権との関係は、戦闘と和約、交易と婚姻外交が交錯する複合的なものであり、文化的相互浸透を伴った。
史料と歴史学の射程
考古学・歴史言語学・碑文学の成果が、伝承の年代記と照合されることで、王都移転・水利体系・宗教制度の変遷が具体化してきた。欧米植民地期の行政記録や旅行記は補助史料となるが、その叙述には統治上の視点が介在するため、地域の物質文化・景観・儀礼を複合的に読む作業が求められる。
- 主要都城:アヌラーダプラ/ポロンナルワ/コーッテ/キャンディ
- 基盤制度:灌漑・仏教・奉仕義務・年代記
- 対外関係:南インド・インド洋交易・欧州勢力