シパーヒーの反乱|英領インド支配を揺るがす大反乱

シパーヒーの反乱

シパーヒーの反乱は、1857年にインド北部を中心として発生した大規模な反英蜂起であり、東インド会社支配に対する軍事的・社会的・宗教的な不満が爆発した事件である。反乱の主体となった「シパーヒー」(sepoy)は、東インド会社軍に所属する現地人兵士で、彼らの反乱はやがて各地の藩王や農民、一部都市住民を巻き込み、旧ムガル帝国の都デリーを象徴的中心とする広域な戦闘へと発展した。本事件は、従来「インド大反乱」「インドの大反乱」などとも呼ばれ、のちのインド民族運動からは「第一次独立戦争」と位置づけられるなど、評価の分かれる歴史的転換点である。

シパーヒーと東インド会社支配の構造

「シパーヒー」とは、東インド会社が編成した現地人歩兵を指し、主としてヒンドゥー教徒やムスリムから募兵されていた。彼らは近代的軍事訓練を受けつつも、出自であるカーストや宗教慣習を保持し、上官であるイギリス人将校との間には明瞭な身分的・人種的な隔たりが存在した。シパーヒーは東インド会社軍の主力として、各地の征服戦争や治安維持に動員され、結果として自らの社会を支配する勢力の拡大に加担させられるという矛盾した立場に置かれていた。この軍事構造の上に、土地制度の改編や重税、キリスト教宣教師活動などが重なり、不満は徐々に高まっていった。

宗教・社会政策と不満の蓄積

反乱前夜には、東インド会社による近代的統治政策が、伝統的秩序への干渉として受け止められていた。土地収奪や新税制により地方支配層や農民は圧迫され、王侯・藩王や旧貴族は領土併合政策によって特権を喪失した。宗教面では、ヒンドゥー教徒にとって牛は神聖であり、イスラーム教徒にとって豚は不浄とされたが、イギリス人官吏や宣教師はこうした感覚に十分配慮せず、改宗の強要が行われるとの風説も広まった。これらの要素が互いに結びつき、「イギリス人は現地社会の宗教・慣習を破壊しようとしている」という不安と憤りが社会全体に蓄積していったのである。

新式銃の弾薬問題と蜂起の発端

直接の引き金となったとされるのが、新式エンフィールド銃の採用に伴う紙製弾薬包問題である。弾薬包には牛脂や豚脂が塗られているという噂が広がり、装填の際にそれを歯で噛み切ることが、自らの宗教を汚す行為になるとの恐怖がシパーヒーの間で急速に共有された。会社側は脂の成分について説明を試みたが、すでに軍隊内部の不信感は深く、懲罰的な態度も相まって、弾薬包への拒否を理由にした処罰は一層の反発を生んだ。この宗教的タブーを巡る不安が、軍紀と忠誠心の崩壊を象徴する事件として、蜂起の導火線となったと理解されている。

メーラトからデリーへ広がる反乱

メーラトでの蜂起

1857年5月、北インドのメーラト駐屯地で、弾薬包の使用を拒否したシパーヒーが軍法会議にかけられ、鎖につながれたうえで公開処罰を受けた。これに憤激した同僚兵士たちは、武器庫を襲撃して白人将校や家族を攻撃し、そのままデリーへ向けて進軍した。メーラトの蜂起は、組織的な事前計画というより、抑圧された不満の爆発に近い性格を持つが、その波及力はきわめて大きかった。

デリーを象徴的中心とする拡大

メーラトから流入した反乱兵は旧ムガル帝国の都デリーに入り、名目上の皇帝であったバハードゥル・シャー2世に反乱の旗頭となることを求めた。老皇帝は実権を持たなかったが、その名は依然として伝統的正統性の象徴であり、彼を頂点とする政権が樹立されると、各地のシパーヒーや地方支配層はこれに呼応した。カーンプルやラクナウなどの都市でも激しい戦闘が続き、反乱は単なる軍隊内部の「反乱」を超え、旧支配層や農民・都市民衆を含む広域の運動へと変貌した。

反乱の鎮圧とイギリス支配の再編

しかし、東インド会社および本国から派遣された軍隊は、シク教徒部隊など反乱に加わらなかった勢力も動員しつつ、都市ごとに包囲・制圧を進めた。デリーやラクナウでは長期の攻防戦の末に住民を巻き込む苛烈な報復が行われ、多数の犠牲が出た。1858年頃までに主だった抵抗は鎮圧され、バハードゥル・シャー2世は流刑となり、ムガル王朝は完全に終焉した。反乱後、イギリス本国政府は東インド会社統治を終わらせ、インド統治を王権直轄とする体制に改め、いわゆるイギリス帝国の「インド帝国」形成へと移行していく。

政策転換とその長期的影響

反乱後の統治改革では、藩王や地主層に対する保護的姿勢が強まり、彼らを通じた間接支配が重視された。一方で、軍制改革によってシパーヒー部隊の比率は抑えられ、ヨーロッパ人兵士の比率が高められたほか、特定の民族・宗教が同一部隊に集中しないよう配慮する編成が試みられた。また、インフラ整備や行政組織の近代化は継続されつつも、現地社会の宗教や慣習に対して表向きは尊重を示す方針が掲げられた。これらの政策は、のちの植民地統治でも典型的に見られる「分割統治」と安定維持の技術として継承されていく。

シパーヒーの反乱の歴史的評価

シパーヒーの反乱は、当時のイギリス側からは主として軍隊内部の「反乱」や「暴動」として理解され、その残虐性が強調された。他方、20世紀以降のインド民族運動の文脈では、多様な階層が参加した反植民地闘争として再評価され、「第一次インド独立戦争」と称されるようになった。実際には地域ごとに参加主体や目的が異なり、統一的な民族独立運動と呼ぶには限界もあるが、インド社会における支配と抵抗の関係を大きく転換させた出来事であったことは疑いない。本事件は、のちのイギリスインドの関係、さらには近代世界における植民地支配と民族運動を考えるうえで、今なお重要な歴史的経験として位置づけられている。