サラーフ=アッディーン
サラーフ=アッディーンは、12世紀後半のイスラーム世界を代表するスルタンであり、十字軍期の近東秩序を再編した指導者である。クルド系の出自をもち、シリアのザンギー朝勢力の将軍シールクーフに従ってエジプト遠征に参加し、ファーティマ朝の宰相に登用されたのち、1171年に同朝を終焉させてスンナ派カリフを再承認、アイユーブ朝の創設者となった。1187年、ヒッティーンの戦いで十字軍を撃破し、エルサレムを回復したことは最も著名な功績である。彼は聖戦の理念を掲げつつも、寛容な降伏条件と捕虜待遇によって騎士道的イメージを獲得し、イスラーム・欧州双方の史書において高い評価を受けている。
出自と台頭
本名はサラーフ・アッディーン・ユースフ・イブン・アイユーブである。父アイユーブはクルド系の将で、家族はティクリートからモースル、さらにダマスクスへと移住した。サラーフ=アッディーンは幼くして軍政の実務に触れ、上司にあたるシールクーフとともにエジプトへ派遣され、1171年のカイロ掌握後は宰相・総督として権限を集中させた。彼は財政再建と軍制刷新を断行し、シリア各地に勢力を拡大してヌールッディーン没後の主導権を掌握、スルタンとしてアレッポ・ダマスクス・カイロの連結を進めた。
エルサレム奪還と第三回十字軍
1187年、ティベリアス近郊ヒッティーンで十字軍主力を包囲撃破し、その勢いでパレスチナの諸都市を次々と降伏させ、同年10月にエルサレムを回復した。以後、英王リチャード1世らの第三回十字軍(1189–1192)と対峙し、アッコン・ヤッファをめぐる攻防で粘り強い防衛と交渉術を示した。最終的に巡礼の自由などを定めた休戦が成立し、聖地周辺の現実的安定を確保した。この間、サラーフ=アッディーンは機動力に富む騎兵運用、補給線遮断、長期消耗戦を組み合わせ、敵の持久力を削って優位を築く手腕を発揮した。
ヒッティーンの戦いの意義
ヒッティーンでは水源掌握と高地制圧を軸に、炎暑下での行軍を強いられた十字軍の士気と隊形を崩した。野戦決戦での勝利は軍事的成果にとどまらず、聖地回復の象徴的達成としてイスラーム世界の求心力を著しく高め、以後の防衛態勢の基盤となった。
統治・宗教政策
サラーフ=アッディーンはエジプト・シリア一帯で徴税の整理とイクター制の再編を進め、軍役付与地の割り当てを通じて騎兵力の維持に成功した。宗教面ではスンナ派秩序の回復と学術振興を重視し、モスクやマドラサを整備して法学教育を支援した。ワクフ(寄進財産)を活用することで宗教・教育・福祉の持続的運営を図り、都市社会の安定を実現した。カイロ城塞の整備やダマスクス周辺の防衛線構築など、要害の強化も体系的に行われた。
行政と文人官僚
彼はイマードゥッディーンやバハーウッディーンらの文人官僚を登用し、書記局を充実させた。外交書簡・停戦条項・恩給目録の文書化は、広域支配の正統性と継続性を支える要となり、統治の可視化と伝達の迅速化に寄与した。
軍事と外交の技法
戦場では軽快な騎射・包囲・偽装退却など多様な術を状況に応じて組み合わせ、補給線の遮断と心理戦を重視した。外交では分割統治と同盟の併用に巧みで、海上勢力・十字軍諸侯・東ローマ系の動向を注視しつつ、停戦と交換を繰り返して戦略的余裕を確保した。交渉での寛容は一面で威信を高め、他面で都市の流血と破壊を回避する実利をもたらした。
主要年表(抜粋)
- 1169年:エジプト宰相就任
- 1171年:ファーティマ朝終焉・スンナ派復興
- 1187年:ヒッティーンの戦い勝利・エルサレム回復
- 1189–1192年:第三回十字軍と対峙、休戦成立
- 1193年:ダマスクスで没
死去と歴史的評価
サラーフ=アッディーンは1193年に死去した。遺産はアイユーブ朝として継承され、後世のマムルーク朝による対十字軍・対モンゴル戦の理念的準備ともなった。イスラーム側史料は敬虔・寛容・正義を強調し、ラテン側記録にも敵将ながら高潔な人物像が刻まれた。彼の統治は軍事的成功と宗教的正統性、行政的整備が重なり合って成立しており、地域秩序の再構築を可能にした点に歴史的独創性がある。戦争と和平の均衡を求めた姿勢は、聖地をめぐる長期的安定の道筋を提示したと言える。