コロンボ会議|冷戦下アジア独立国の連帯会議

コロンボ会議

コロンボ会議は、1954年にセイロン(現在のスリランカ)の首都コロンボで開かれた、アジアの主要独立国による首相級会合である。冷戦下で緊張が高まるアジア情勢、とりわけインドシナ戦争の帰趨や大国の介入をめぐって意見交換が行われ、翌年のバンドン会議へとつながる道筋を作った点で、戦後アジア外交史に位置づけられる。

開催の背景

第2次世界大戦後、アジアでは植民地支配の終焉が進む一方、米ソ対立を軸に地域紛争が国際化しやすい状況が生まれた。フランス領インドシナでは独立勢力と宗主国側の戦闘が激化し、周辺諸国も安全保障と経済復興の両面で影響を受けた。こうした中、アジアの独立国が自らの立場から地域の安定と外交方針を協議する必要性が高まり、コロンボ会議が構想された。

参加国と主要人物

コロンボ会議は「コロンボ五カ国」と呼ばれる枠組みで知られる。参加国はインド、パキスタン、セイロン(スリランカ)、ビルマ(ミャンマー)、インドネシアであり、いずれも植民地支配の経験を背景に、対外自主性を強く志向した。

  • インド: ネルーを中心に非同盟的発想を外交理念として展開
  • インドネシア: 独立直後の国家建設と国際的承認の確保を重視
  • ビルマ(ミャンマー): 中立外交を掲げ、周辺の軍事ブロック化を警戒
  • パキスタン: 安全保障上の不安を抱えつつ、地域協調の余地も模索
  • セイロン(スリランカ): 開催国として調整役を担い、対話の場を提供

主要議題と会議の性格

コロンボ会議の中心議題は、インドシナ戦争の停戦・和平の見通し、大国の軍事介入の抑制、アジア諸国間の協力の方向性であった。ここでの特徴は、軍事同盟を前提とする会議ではなく、各国の事情の違いを残したまま「対話を継続する枠」を優先した点にある。国境紛争や国内政治の差異を抱える国同士が、共通の関心として地域の戦争拡大を避けることに焦点を当てた。

インドシナ問題への姿勢

当時のインドシナは、戦争の長期化により難民・経済混乱が広がり、周辺国の政治にも波及していた。コロンボ会議では、停戦交渉の促進と国際会議での解決を志向しつつ、特定の大国陣営に依存しない形で和平の余地を広げることが意識された。これは、地域の紛争を「代理戦争」として固定化させないための外交的工夫であり、後のアジア・アフリカ連帯へと接続する論点となった。

「地域の声」を国際場面へ持ち込む発想

大国主導の枠組みに対して、当事者に近いアジア諸国が意見を整え、国際交渉に反映させようとする姿勢が見られた。これは、国際連合中心の秩序観と両立しつつも、植民地経験を持つ新興国が主体性を示す試みであった。

バンドン会議への道筋

コロンボ会議の歴史的意味としてしばしば挙げられるのが、アジア諸国の協議枠を拡大し、アフリカ諸国を含む広域会議の機運を醸成した点である。翌1955年のバンドン会議は、アジア・アフリカ諸国が植民地主義への反省、平和共存、経済協力を掲げる象徴的な舞台となったが、その前段で「独立国同士が政策協調を試みる」経験を積んだことが、会議運営と外交言語の形成に寄与した。

意義と限界

コロンボ会議は、軍事同盟とは異なる形で地域の安全保障を語ろうとした点で、第三世界外交の胎動を示す出来事といえる。一方で、参加国の脅威認識や対外関係は一致しておらず、具体的な強制力を伴う制度を作ったわけではない。にもかかわらず、戦後のアジア外交において「会議外交」による合意形成が可能であることを示し、独立国が国際政治の受け手にとどまらず発信者となる契機を与えた点が重要である。

コロンボ・プランとの混同

コロンボ会議は政治・外交上の協議として語られることが多いが、同じ「コロンボ」を冠する用語としてコロンボ・プランが存在する。コロンボ・プランは主に経済開発・技術協力の枠組みを指し、成立の経緯や参加国の範囲、目的が異なる。名称が近いため混同されやすいが、前者は首相級会合を起点とする外交史上の出来事、後者は長期的な開発協力の制度として整理すると理解しやすい。

開催地コロンボの意味

開催地となったコロンボは、インド洋交通の要衝として古くから国際交流の窓口であり、英領期以降も行政・貿易の中心として機能してきた。独立後のセイロン(スリランカ)が地域協調の舞台を提供したことは、島嶼国家が地政学的条件を活かして国際的存在感を示す一例でもある。こうした開催地の選択自体が、戦後の国際秩序が欧米中心から多極化へ向かう過程を象徴した。