キュチュク=カイナルジ条約|ロシア南下を決定づけた講和

キュチュク=カイナルジ条約

キュチュク=カイナルジ条約は、1774年に締結されたロシア帝国とオスマン帝国の講和条約である。1768年から続いた露土戦争を終結させるもので、黒海北岸の支配権やクリム=ハン国の地位、さらにはオスマン領内のギリシア正教徒保護をめぐる新たな原則を定めた。この条約は、ロシアの黒海進出とオスマン帝国の国際的地位の低下を決定づけ、近代ヨーロッパ国際関係の転換点となったと評価される。

締結の背景

18世紀後半、エカチェリーナ2世の時代のロシアは南方進出を積極的に進め、黒海への出口を求めていた。一方、長期にわたりヨーロッパ・中東世界に君臨してきたオスマン帝国は軍事・財政両面で弱体化し、バルカンや黒海沿岸の支配が不安定化していた。1768年の戦争勃発後、ロシア軍は黒海北岸のタタール勢力を圧迫し、ドナウ川方面でも優位に立ち、オスマン側は単独で戦争を継続する力を失いつつあった。この軍事的劣勢を背景に、オスマン帝国はキュチュク=カイナルジにおける講和交渉に臨むことになった。

条約の主な内容

キュチュク=カイナルジ条約は、多くの条項から成り、その多くがロシアに有利なものであった。ロシアは黒海沿岸での領土拡大と政治的影響力の強化を達成し、オスマン帝国は宗主権の後退と軍事的威信の低下を認めざるをえなかった。特に、クリム=ハン国の地位、黒海航行権、ギリシア正教徒保護権をめぐる条項は、後の露土関係やヨーロッパ列強の東方問題への関与に長期的な影響を及ぼした。

領土割譲と黒海進出

条約により、ロシアはアゾフ海沿岸の要地を獲得し、黒海北岸への足がかりを一層強化した。特にアゾフやケルチなどの拠点の掌握は、黒海への軍艦・商船の進出を可能にし、黒海を経由した貿易と軍事行動の基盤となった。また、ロシア船舶には黒海および地中海への自由航行が認められ、オスマン帝国が長く維持してきた黒海の「内海」としての性格は大きく揺らいだ。

クリム=ハン国の独立と保護権

条約の核心の1つが、黒海北岸のクリム=ハン国の地位をめぐる規定である。形式上、クリム=ハン国はオスマン帝国から「独立」とされたが、その背後にはロシアの影響力拡大があった。ロシアはクリム=ハン国の内政に関与する機会を得て、のちにこの地域を直接支配する布石とした。こうして黒海北岸は、オスマン帝国の宗主権が後退し、ロシア勢力が浸透する境界地帯へと変質していった。

キリスト教保護権と教会問題

キュチュク=カイナルジ条約は、オスマン領内のギリシア正教徒に対するロシアの「保護権」を認めた条項でも知られる。ロシアはコンスタンティノープルに教会を建立する権利を獲得し、それを根拠にオスマン帝国支配下の正教徒の利益を代表すると主張した。この規定は、19世紀以降のバルカン問題やクリミア戦争にもつながる宗教・外交上の争点となり、ロシアの南下政策を正当化する重要な論拠として用いられた。

ヨーロッパ国際関係への影響

キュチュク=カイナルジ条約は、いわゆる「東方問題」の出発点の1つとみなされる。ロシアの黒海進出とオスマン帝国の弱体化は、ハプスブルク帝国プロイセン、さらにはイギリス・フランスなどヨーロッパ列強の警戒を招いた。以後、バルカン半島や黒海沿岸をめぐる紛争には、多数の列強が介入する構図が定着し、露土戦争やバルカン危機が国際政治の焦点となっていく。

オスマン帝国衰退史における位置づけ

オスマン帝国の側から見ると、キュチュク=カイナルジ条約は17世紀末のカルロヴィッツ条約と並んで、領土縮小と宗主権喪失を象徴する転機であった。バルカンや黒海北岸では自治・独立を求めるキリスト教徒勢力や地方権力が台頭し、中央政府の統制は一段と揺らいだ。こうした状況は、のちのギリシア独立戦争やバルカン民族運動につながり、オスマン帝国の「ヨーロッパ部分」の切り崩しを加速させた点で、条約の歴史的意義はきわめて大きい。