カルロヴィッツ条約
カルロヴィッツ条約は、1699年に締結された講和条約であり、17世紀末の大トルコ戦争を終結させた条約である。条約はスレムスキ・カルロヴツ(カルロヴィッツ)で開かれた国際会議の結果として成立し、キリスト教諸国側の勝利とオスマン帝国の後退を決定づけた。これによりハプスブルク君主国はハンガリーを中心に中欧での優位を確立し、バルカン半島における勢力図は大きく塗り替えられた。カルロヴィッツ条約は、オスマン側がヨーロッパ列強に対して大規模な領土譲渡を初めて認めた条約として、「オスマン帝国領の縮小」の出発点と評価される。
背景:第2次ウィーン包囲と大トルコ戦争
17世紀のオスマン帝国は、長らくバルカン半島から中欧へ勢力を伸ばし、ハプスブルク領に圧力をかけていたが、1683年のウィーン包囲(第2次)の失敗によって転機を迎えた。ウィーン救援に成功したハプスブルク君主国とポーランド、さらにはヴェネツィア共和国やのちのロシア帝国が神聖同盟を結成し、いわゆる大トルコ戦争が展開された。1680年代から90年代にかけてハンガリーやスラヴ地方での戦闘はキリスト教側の優位で進み、ゼンタの戦いなどでハプスブルク家軍が決定的勝利を収めた結果、カルロヴィッツ条約へとつながる講和交渉の条件が整ったのである。
講和会議の開催と交渉の過程
戦争の長期化によって、オーストリアを中心とするハプスブルク君主国側も財政負担に苦しんでおり、海上貿易の安定を望む西欧の海洋国家も早期講和を求めていた。こうして1698年、スレムスキ・カルロヴツで国際会議が開かれ、オーストリア・ポーランド・ヴェネツィア共和国・ロシア帝国などキリスト教諸国と、敗勢のオスマン帝国代表が対峙した。イギリスやオランダが仲介役として参加し、近代的な多国間会議の形をとった点で、カルロヴィッツ条約はウェストファリア条約以後の国際政治の発展を示す事例とされる。
条約の主な内容
ハプスブルク君主国による中欧支配の確立
- カルロヴィッツ条約によって、ハプスブルク家はハンガリーの大部分とスラヴォニア、クロアチアの多くを獲得し、トランシルヴァニアにも宗主権を及ぼすことになった。これによりハプスブルク君主国は中欧の広大な領土を支配する大国として台頭し、のちの中欧秩序やオーストリア帝国の基盤が固められた。
ポーランド・ヴェネツィア・ロシアへの譲歩
- ポーランド王国は、かつて失ったポドリア地方や要衝カミエネツ・ポドリスキーを回復し、オスマン側との国境線を安定させた。
- ヴェネツィア共和国はペロポネソス半島(モレア)とアドリア海沿岸の一部を獲得し、地中海における勢力の維持を図った。
- ロシア帝国はカルロヴィッツ条約そのものではなく、1700年のコンスタンティノープル条約でアゾフなどを獲得したが、大トルコ戦争の講和枠組みの一部として理解されることが多い。
カルロヴィッツ条約の歴史的意義
カルロヴィッツ条約は、ヨーロッパにおけるオスマン帝国の軍事的優位が終焉し、キリスト教諸国が主導権を握る国際秩序への転換点となった。バルカンの多くの地域でキリスト教勢力の支配が回復され、中欧ではハプスブルク家が覇権を確立した結果、のちの「東方問題」と呼ばれる勢力争いの前提が形づくられた。また、多国間会議と仲介国家による調停という形式は、18世紀以降の国際会議や講和会議の先例とみなされ、カルロヴィッツ条約は軍事史のみならず外交史の重要な節目として位置づけられている。