カニング|19世紀イギリスの外交家

カニング

カニングは、19世紀前半のイギリスを代表する政治家・外交官であり、ラテンアメリカ独立承認やウィーン体制からの距離の取り方を通じて、国際秩序の転換に大きな影響を与えた人物である。トーリ党に属しながらも比較的自由主義的な傾向を持ち、イギリスの海上覇権と通商拡大を軸に、ヨーロッパの「旧世界」とアメリカ大陸の「新世界」を結びつける外交を展開した。とくにラテンアメリカ独立を承認する政策と、アメリカ合衆国のモンロー教書モンロー主義との関係は、世界史教育でも頻繁に取り上げられる重要なテーマである。

生い立ちと政治家としての歩み

カニング(ジョージ・カニング)は、18世紀末のロンドンに生まれ、若くして名門校で教育を受けたのち政界に入った。庇護者となったのは、第1次・第2次ピット内閣で知られるウィリアム・ピット(小ピット)であり、カニングはその下で外交問題に関心を深めていく。やがて彼は下院議員として頭角を現し、外務大臣・植民地大臣などの要職を歴任したのち、1827年には首相にも就任したが、その在任期間は短く、健康悪化によりまもなく死去した。

青年期からの弁論の才能は議会で高く評価され、対外政策だけでなく国内問題でも影響力をもった。とくにカトリック教徒解放問題などにみられるように、彼は保守的なトーリ党に属しながらも一定の改革を認める姿勢を示し、同じ党内の強硬な保守派とたびたび対立した。このような立場は、後のヴィクトリア時代へと続くイギリス自由主義の先駆としても理解される。

トーリ党政治家としての立場

カニングは形式上はトーリ党の一員であり、王政と貴族制を基礎とする政治秩序を支持していた。しかし彼は、単純な反動的保守主義者ではなく、産業化と帝国拡大が進むイギリスの現実に合わせて、限定的な改革の必要性も認めていた。とくに宗教・経済に関する次のような姿勢が指摘される。

  • カトリック教徒解放に一定の理解を示し、宗教的寛容を重視したこと
  • イギリス産業資本の利益を背景に、関税緩和や通商拡大に積極的であったこと
  • 大陸諸国の反動的介入に距離を置き、外国革命への武力介入を慎重に見たこと

こうした姿勢は、ウィーン体制期におけるイギリスの特異な位置づけをよく示している。すなわち、イギリスは正統主義や君主間の協調を掲げる一方で、国内では産業資本主義が進展し、議会政治や市民社会の力が増大していた。そのねじれのなかで、カニングは王政を維持しつつも、自由貿易と海上覇権を軸にした現実主義的外交を追求したのである。

外交政策の基本方針

カニングの外交政策は、一言でいえば「イギリスの国家利益を最優先する現実主義」と「自由貿易志向」の結合であった。彼はウィーン体制下の列強協調(いわゆる会議体制)に全面的には依存せず、イギリスの海軍力と金融力を背景に、単独行動も辞さない姿勢をとった。とくに重要だったのは、スペイン帝国の衰退とラテンアメリカ独立の進行を、イギリスの通商拡大の好機とみなした点である。

ウィーン体制の中核をなしたのは、ロシア・オーストリア・プロイセンなどが結んだ神聖同盟と、それに参加した諸国による革命弾圧の協調体制であった。しかしカニングは、このような大陸の反動的介入がイギリスの貿易と海上覇権を損なう危険を感じ、スペインやイタリアへの軍事介入に批判的であった。彼にとって最優先されるべきは、ヨーロッパ均衡の維持と同時に、世界市場におけるイギリス商品の流通拡大であり、これはラテンアメリカ独立問題とも密接に結びついていた。

ラテンアメリカ独立支援と通商拡大

19世紀初頭、スペイン支配下のラテンアメリカでは独立運動が高まり、多くの新国家が誕生しつつあった。カニングはこれら新国家をいち早く承認し、通商条約を締結することで、イギリスが優位な貿易関係を築くことを狙った。彼は「新世界を旧世界の均衡を正すために呼び起こした」と語ったとされ、この言葉はラテンアメリカ独立支援の象徴的表現として知られている。

一方、アメリカ合衆国ではルイジアナ買収米英戦争1812年戦争)を経て、北米大陸での勢力拡大を進めていた。こうした状況のなかで公布されたモンロー教書は、ヨーロッパによるアメリカ大陸への新たな植民地化に反対し、アメリカ大陸とヨーロッパの相互不干渉を掲げるものだった。カニングはこの動きと歩調を合わせつつも、あくまでイギリスの海上覇権と通商上の利益を第一に考え、独自の外交戦略を展開した。

ラテンアメリカ側では、独立後も地方軍事指導者であるカウディーリョの台頭や、ヨーロッパ系と先住民・アフリカ系の混血であるムラートなど多様な社会集団の対立が続き、内戦や領土紛争が頻発した。その延長上には、後の太平洋戦争(南米)のような国際紛争も位置づけられる。カニングの政策は、それらラテンアメリカ諸国に対するイギリスの影響力を高めると同時に、こうした不安定な地域における経済的利権確保を意図したものであった。

ウィーン体制とヨーロッパ政治

カニングは、ウィーン会議後の会議体制が大陸諸国の内政干渉を正当化する仕組みになることを警戒した。彼の前任者カースルレー(カスルレー)は、会議体制の維持により革命を防ごうとしたが、カニングはその枠組みへの参加を徐々に縮小し、イギリスを大陸の反動的介入から距離を置かせた。この姿勢は、スペイン反乱へのフランス軍介入や、イタリア半島の運動に対するオーストリアの介入に対する消極的態度として表れている。

さらにカニングは、ギリシア独立戦争においてもオスマン帝国への圧力を強め、ロシアやフランスとともにギリシア独立を支持する方向へ動いた。彼の死後に起こるナヴァリノ海戦は、直接には後継者たちの決定によるものだが、その外交路線はカニングが打ち出したヨーロッパ均衡と海上覇権の維持という基本方針の延長に位置づけられる。

モンロー主義との関係

アメリカ合衆国のモンロー主義は、表面的にはカニングの外交とよく似たスローガンを掲げていた。すなわち、「ヨーロッパによるアメリカ大陸への新たな植民地化を認めない」という点では両者は一致している。しかし、その目的は必ずしも同一ではない。アメリカ側は、自国の安全保障と勢力圏の維持を重視し、ヨーロッパの干渉を排除したいという意図が強かった。一方イギリス側では、ヨーロッパ諸国による植民地回復を阻止することで、ラテンアメリカ市場を自国の通商に開放しておくことが主な狙いであった。

そのため、カニングはアメリカに対して共同宣言の可能性を打診しつつも、最終的には独自の外交声明と新国家承認を通じて同じ目的を達成しようとした。結果として、アメリカのモンロー教書とイギリスの外交方針は、ラテンアメリカにおけるヨーロッパの再植民地化を食い止める点で相互補完的に機能し、新世界の国際秩序を形づくる重要な枠組みとなった。

歴史的意義

カニングは、表向きには君主制と貴族制を擁護するトーリ党政治家でありながら、実際には産業資本主義と帝国主義の時代にふさわしい柔軟な外交を展開した点で注目される。彼が推し進めたラテンアメリカ独立承認は、スペイン帝国支配の終焉を早めただけでなく、世界市場を地球規模に拡大させ、イギリスが「世界の工場」として君臨する土壌をつくった。また、ウィーン体制からの部分的離脱は、会議体制に依存した反動的秩序から、より流動的で経済力・海軍力を重視する国際政治へと移行する一歩となった。