カナダ連邦
カナダ連邦は、北アメリカにおけるイギリス植民地が結合し、1867年に成立した連邦国家である。これは英本国の帝国支配の枠内で自治を認められた「Dominion of Canada(カナダ自治領)」の出発点であり、のちにアメリカ合衆国に匹敵する広大な連邦国家へと発展していく契機となった。この成立過程には、アメリカ独立後の安全保障上の不安、植民地経済の変化、鉄道建設の進展など、19世紀の帝国主義時代を特徴づける要因が複雑に絡み合っていた。
成立の背景
18世紀末にアメリカ合衆国が独立すると、イギリスは残された北アメリカの植民地(カナダ、ノヴァスコシア、ニュー・ブランズウィックなど)の防衛に頭を悩ませることになった。とくに19世紀半ばになると、人口と経済力を急速に増大させたアメリカが北方への膨張を進め、これらの地域がアメリカに併合されるのではないかという危機感が高まった。また英本国側でも、遠隔地の植民地(帝国主義時代)の防衛費負担を軽減し、植民地自らに責任ある自治を担わせようとする動きが強まっていた。
アメリカ合衆国との関係と安全保障
カナダ地域では、アメリカ独立戦争や米英戦争を通じて、アメリカとの軍事的緊張が何度も経験された。さらに南北戦争後には、合衆国が統一国家として再結束し、国力を背景に北米大陸全体への影響力を強めていった。こうした状況下で、バラバラな植民地のままでは防衛も外交交渉も不利になるという認識が共有され、諸植民地をまとめて一つの連邦とする構想が現実味を帯びていったのである。
経済的要因と鉄道建設
もう一つの重要な背景は、経済構造の変化である。19世紀半ば、木材や穀物の輸出に依存していた英領北アメリカの植民地は、アメリカとの通商条約の終了によって市場を失う危険に直面した。そこで広域な国内市場を形成し、東部と内陸部を鉄道で結びつけることが急務となる。鉄道建設には莫大な資金が必要であり、英本国やロンドンの金融市場からの資金調達、すなわち金融資本の力が不可欠であった。こうして「経済的な自立と発展の基盤を作るには連邦化が有利である」との判断が、植民地政治家たちの間で支持を集めていった。
連邦化への過程
連邦化は、植民地の政治家たちによる一連の会議を通じて具体化した。まず1864年、海洋州連合を検討していた海岸地域の植民地に、カナダ植民地(ケベックとオンタリオを含む)が参加する形で、シャーロットタウン会議が開かれた。ここでより大きな連邦構想が提案され、続くケベック会議で連邦制の枠組みが詳細に議論された。
シャーロットタウン会議とケベック会議
ケベック会議では「72カ条決議」と呼ばれる基本原則が採択され、中央政府と州政府の権限分配、上院・下院二院制、責任内閣制などが定められた。フランス語話者が多いケベックと、英語話者が多いオンタリオとの対立を調整しつつ、地域の多様性を保つために州の権限を確保しつつも、外交・軍事・関税などは連邦政府が担当するという仕組みが構想されたのである。
ロンドン会議と英領北アメリカ法
連邦構想は1866年のロンドン会議で英政府に提示され、議論ののち「英領北アメリカ法(British North America Act)」として議会を通過した。この法律により、1867年7月1日にカナダ、ノヴァスコシア、ニュー・ブランズウィックが正式に連邦を組織し、「Dominion of Canada」が発足した。ここに、形式上はイギリス国王を元首とするが、内政面で高度な自治権をもつ連邦国家が誕生したのである。
連邦制の仕組み
カナダの連邦制は、イギリス型の議会主義と、アメリカ型の連邦国家の要素を折衷した構造をもつ。国家元首はイギリス国王であり、現地では総督がその代理を務めるが、実際の政治は責任内閣制にもとづく内閣と議会によって行われる。連邦政府と州政府の間には明確な権限分配が定められ、州は教育・地方行政などを担当し、連邦は国防や通商などを管轄した。
中央政府と州政府の権限分配
- 連邦政府は、外交・軍事・関税・通貨・郵便など、国家全体に関わる分野を担当した。
- 州政府は、教育制度、地方税、民法など、地域社会の日常生活に密接に関わる分野を管轄した。
- 両者の権限が重なりうる分野については、連邦法が優越すると規定され、国家の統一性が保たれるよう工夫された。
責任内閣制と自治の拡大
カナダでは、閣僚が議会に対して政治的責任を負う責任内閣制が早くから確立し、形式上は植民地でありながら、実際には自治国家に近い運営が行われた。この仕組みは、のちにオーストラリアやニュージーランドなど他の「白人植民地」の自治制度にも影響を与え、英本国の帝国統治を再編する重要なモデルとなった。
領土拡大と国家建設
連邦成立後、カナダは西方への領土拡大と国家建設を進めた。ハドソン湾会社の支配地を買収してマニトバ州や西部諸州を編入し、太平洋岸のブリティッシュ・コロンビアを連邦に引き入れるために大陸横断鉄道の建設を約束した。これらの政策は、産業化と結びついた西部開拓という点で、ヨーロッパにおける第2次産業革命と共通する時代的背景をもっていた。
移民政策と先住民への影響
西部開拓を進めるため、カナダ政府はヨーロッパからの入植者や東アジアからの労働者など、多様な移民(帝国主義時代)を受け入れた。一方で、先住民に対しては条約締結や保留地政策が進められ、土地の収奪や同化政策により深刻な影響を与えた。これは、同時期の他地域における帝国主義と列強の展開と軌を一にする動きであり、カナダもまた帝国主義時代の構造の中に組み込まれていたことを示している。
帝国主義時代におけるカナダ連邦の意義
19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパは「ベルエポック」と呼ばれる安定と繁栄の時期を迎えたが、その背景には、世界各地への植民地支配と資源・市場の確保があった。カナダは形式上は自治領として、自らの政治制度を整えつつも、イギリス帝国の一部として原料供給や市場として組み込まれ、しばしば世界的な恐慌や国際的な資本移動の影響を受けた。同時に、鉄道や重工業、金融機関の発展は、独占資本やカルテル、トラスト、コンツェルンなど、大企業体の形成とも結びつき、カナダ経済を帝国主義的世界経済の一部として位置づけていった。こうしてカナダ連邦は、帝国支配と自治、資本主義の発展と地域社会の変容という、近代世界史の主要なテーマが凝縮された存在として理解されるのである。