オスマン帝国領の分割案
第一次世界大戦中から戦後にかけて、イギリスやフランスなどの連合国は、敗戦が確実視されたオスマン帝国の領土をどのように処理するかについてさまざまな構想を練った。これらの構想の総称がオスマン帝国領の分割案であり、中東の国境線や民族問題の重要な出発点となった。分割案は、帝国の解体、戦勝国間の利権調整、民族自決の理念が錯綜するなかで形成され、のちのセーヴル条約や委任統治制度に結びついた。
第一次世界大戦とオスマン帝国解体の前提
オスマン帝国は19世紀以降、「ヨーロッパの病人」と呼ばれるほど衰退し、バルカン半島や北アフリカの領土を次々と失った。それでも帝国はアナトリア半島とアラビア・シリア・メソポタミアなど広大な領域を支配していたため、列強は早くからその再分割を構想していた。第1次世界大戦で帝国が同盟国側として参戦すると、連合国側はドイツ処理を定めたヴェルサイユ条約やオーストリア処理のサン=ジェルマン条約などと並行して、オスマン帝国領の行方を秘密裏に話し合うようになった。
サイクス=ピコ協定による分割構想
1916年のサイクス=ピコ協定は、イギリスとフランスがロシアの同意を得て結んだ秘密協定であり、オスマン帝国のアラブ地域を勢力圏ごとに分割する最初期の具体案であった。地中海沿岸のシリア・レバノン一帯はフランスの支配・勢力圏、メソポタミア南部はイギリスの支配地域とされ、パレスチナは国際管理とする構想が示された。協定は、のちにフランス委任統治下のシリア・レバノンと、イギリス委任統治下のイラク・パレスチナ・トランスヨルダンへとつながり、中東の政治地図の原型となった。
フサイン=マクマホン往復書簡との矛盾
一方でイギリスは、メッカの太守フサインに対してアラブ独立を約束したフサイン=マクマホン往復書簡も交わしていた。そこでは、戦後に広大なアラブ国家を承認するかのような姿勢が示されていたが、サイクス=ピコ協定は同じ地域を英仏で分割する内容であったため、両者は明白な矛盾をはらんでいた。この齟齬は戦後に暴露され、列強への不信感とアラブ民族主義の高揚を招く要因となった。
パリ講和会議とセーヴル条約の分割案
1919年のパリ講和会議では、ドイツ・オーストリア・ブルガリアに対するヌイイ条約やトリアノン条約とともに、オスマン帝国処理も議題となった。1920年に締結されたセーヴル条約は、これまでの構想を具体化した分割案であり、アナトリア西部と東トラキアの一部をギリシアに割譲し、アルメニア国家やクルド人の自治的区域を認め、イスタンブルと海峡地帯を国際管理とするなど、帝国の主権を大幅に制限する内容であった。アラブ地域は英仏の委任統治領とされ、石油資源と交通路の確保が最優先された。
サン・レモ会議と委任統治領の確定
1920年のサン・レモ会議では、サイクス=ピコ協定を修正しつつ、イラク・パレスチナ・トランスヨルダンをイギリス、シリア・レバノンをフランスの委任統治領とすることが正式に決定された。この決定は、ヨーロッパでラインラントやポーランド回廊などをめぐって進んだ領土再編と同様、戦勝国の安全保障と経済的利害を最優先したものであった。
トルコ民族運動とローザンヌ体制
しかし、セーヴル条約はトルコ人にとってあまりにも苛酷であったため、ムスタファ・ケマルを指導者とするトルコ民族運動が勃興し、ギリシアとの戦闘や列強との交渉を通じて条約の破棄を目指した。その結果、1923年のローザンヌ条約によって、アナトリアと東トラキアは新生トルコ共和国の領土として承認され、トルコ本体に関する分割案は大きく修正された。他方で、アラブ地域の委任統治体制は存続し、中東の国境線と国家枠組みは戦間期を通じて固定化していった。
歴史的意義
以上のように、オスマン帝国領の分割案は、ヨーロッパでの講和条約体系と密接に結びつきながら、中東の近代国家形成を方向づけた構想であった。列強の戦略的利害と民族自決の理念とのギャップは、その後も紛争や不安定要因として残り続けることになる。第1次世界大戦後秩序を規定したヴェルサイユ条約体系の一環として、この分割案を捉えることで、ヨーロッパと中東をまたぐ国際秩序の再編を一体的に理解することができる。
コメント(β版)