エチオピア侵攻(併合)
エチオピア侵攻(併合)とは、1935年から1936年にかけてイタリア王国がエチオピア帝国(当時しばしばアビシニアとも呼ばれた)へ武力侵攻し、首都アディスアベバ占領後に併合を宣言して「イタリア領東アフリカ」を成立させた一連の過程である。近代国際社会が掲げた集団安全保障の理念が現実の侵略を抑止できなかった象徴的事件とされ、アフリカの主権国家に対する植民地戦争として政治的・軍事的影響が大きい。
背景
イタリアは19世紀末以来、紅海沿岸のエリトリアやソマリア方面を拠点に東アフリカで勢力拡大を図ったが、1896年のアドワの戦いでエチオピアに敗北し、列強の植民地獲得競争の中で屈辱として記憶された。1920年代以降、ムッソリーニ政権とファシズム体制は「帝国再建」を掲げ、対外膨張を国内統合と国威発揚の手段に位置づけた。世界恐慌後の国際緊張の高まりも重なり、エチオピアは独立を維持する数少ないアフリカ国家として、列強政治の圧力が集中しやすい立場に置かれた。
開戦への道筋
直接の契機として、国境地帯での衝突が外交問題化し、交渉と調停が難航したことが挙げられる。イタリアは自国領とした周辺植民地から兵力と物資を継続的に集結させ、侵攻準備を既成事実化していった。エチオピア側は近代的装備や補給能力で劣勢であり、動員はできても統一的な指揮と機械化戦力の不足が構造的課題であった。こうした非対称性が、侵攻開始後の戦局に大きく作用した。
侵攻の進展と軍事行動
1935年10月、イタリア軍は北部と東部から本格的に進撃した。航空機と装甲車、砲兵の集中運用により、伝統的な兵力主体のエチオピア軍を各地で後退させた。戦闘では航空爆撃や焼き討ちなど住民生活に直結する破壊が広がり、国際的非難の対象となった。1936年春までに主要会戦で優位を確立し、5月にアディスアベバを占領して政治的決着へ向かった。
併合の宣言と統治構想
占領後、イタリアはエチオピアを併合し、周辺植民地と統合した「イタリア領東アフリカ」を形成した。併合は軍事占領を行政制度へ転換する行為であり、統治正当化のため道路・都市計画など近代化を掲げる一方、抵抗勢力への弾圧や人種的階層化を伴った。支配の安定には常時の治安作戦が必要で、占領地全体を均質に掌握したとは言い難い状況が続いた。ここでの「併合」は、主権の移転を一方的に宣言した政治行為であって、エチオピア側の同意や国際的承認に支えられたものではなかった。
「侵攻」と「併合」の位置づけ
侵攻は武力行使による領域への進入と制圧の過程であり、併合はその成果を恒久化するために領有を宣言し統治機構を設ける段階である。エチオピア侵攻(併合)は、この2つが短期間に連続して進行した点に特徴がある。軍事的勝利がただちに政治的秩序の確立を意味しないこと、宣言された主権と現地の実効支配が一致しないことが、以後の抵抗と再解放の伏線となった。
国際連盟の対応と制裁の限界
エチオピアは国際社会に訴え、国際連盟は侵略として非難し経済制裁を決定した。しかし制裁は範囲と実効性に限界があり、軍事的抑止に直結しなかった。列強間の利害対立や、制裁が自国経済に及ぼす影響への警戒が、強硬措置を鈍らせたとされる。この事件は集団安全保障の理念が政策として貫徹されなかった事例として理解され、のちの国際秩序不安に拍車をかけた。
エチオピア側の抵抗と亡命の政治
エチオピアでは占領後も各地で抵抗が続き、地方勢力や住民が地形と機動を生かしてゲリラ的に抗戦した。皇帝は国外で支持を求め、侵略の不当性と国際協調の必要を訴えた。こうした抵抗は占領統治のコストを押し上げ、イタリア側に恒常的な治安負担を強いた。抵抗の継続は、併合宣言が政治的効果を持っても、社会の同意や統治の正統性を代替できないことを示した。
終結と歴史的意義
1940年代初頭、欧州戦争の拡大とともに東アフリカ戦線が形成され、イタリアの支配は軍事的圧力の下で動揺した。1941年にはエチオピアが再び独立国家としての地位を回復し、併合体制は崩壊した。事件は第二次世界大戦前夜の国際政治を読み解く鍵であり、侵略のコストと制裁の実効性、主権と実効支配の関係を考える素材となる。またイタリアがドイツと接近し、のちの枢軸国形成へ傾斜する過程とも連動し、地域紛争が世界規模の対立へ結びつく連鎖の一環として位置づけられる。