ウッチャリ条約
ウッチャリ条約は、1889年にエチオピア皇帝メネリク2世とイタリア王国とのあいだで結ばれた条約である。紅海沿岸でのイタリアのアフリカ侵出と、エチオピアの内政・外交上の課題が交錯するなかで締結され、イタリア領エリトリアの成立や両国関係の枠組みを定めた。とりわけ第17条をめぐり、イタリア語文とアムハラ語文の解釈が大きく異なったことが、のちにエチオピア保護国化を主張するイタリアと、それに反発するエチオピアの対立を生み、第1次イタリア・エチオピア戦争とアドワの戦いへとつながった点で重要である。
締結の背景
19世紀後半、欧米列強は「アフリカ分割」を進め、紅海・インド洋に面した地域も争奪の対象となった。イタリアは統一達成が遅れた「後発帝国」として、北東アフリカへの進出に活路を見いだし、紅海沿岸の港湾マッサワなどを占拠して植民地支配を拡大していった。この動きは、のちにイタリア領エリトリアや東アフリカ植民地の形成へとつながる。一方、高地エチオピア内部では諸勢力が争う状況にあり、ショア地方の王であったメネリクは、皇帝位の獲得と国家統一を目指していた。
イタリアの紅海進出とエリトリア
1880年代、イタリアは紅海沿岸のマッサワやアスマラ周辺を基盤に支配を広げ、のちにイタリア領エリトリアとなる地域を掌握した。スエズ運河開通後、この地域は地中海とインド洋を結ぶ航路上の戦略的要衝とみなされ、イギリスやフランスとも利害が交錯していた。イタリアは列強の一角としての地位を確立するため、エチオピア高原への影響力を拡大し、内陸支配を進める足がかりとしてウッチャリ条約の締結を構想したのである。
メネリク2世の台頭と外交戦略
当時のエチオピアではテオドロス2世、ヨハンネス4世らの後、内戦と外敵の脅威が重なっていた。ショアの王メネリクは、武器や弾薬を入手し、国内の競合勢力に対抗するため、ヨーロッパ列強との取引を利用した。彼はイタリアと関係を結ぶことで、自身の皇帝即位の国際的承認と、エチオピアの領土保全を同時に達成しようとしたのであり、その具体化がウッチャリ条約であった。
ウッチャリ条約の締結と内容
ウッチャリ条約は、1889年5月、エチオピア北部の村ウッチャリ(ウチャーレ)で、メネリク2世とイタリア代表アントネッリ伯爵らによって調印された。条約は、イタリアによる紅海沿岸支配の承認と引き換えに、イタリアがメネリクを「エチオピア皇帝」として正式に承認し、武器供与や資金貸与を約束するものであった。また、外国人の通行や通商に関する規定も置き、エチオピアの対外関係にイタリアが関与する余地を与えていた。これによりイタリアは、植民地支配の範囲を法的に固めるとともに、内陸への影響力拡大を狙ったのである。
第17条をめぐる二つの文言
ウッチャリ条約で最も問題となったのは第17条である。イタリア語文では、エチオピア皇帝が他国と外交関係を結ぶ際には、必ずイタリア政府を通さねばならないと読める文言が用いられ、エチオピアをイタリアの保護国とみなす根拠とされた。これに対しアムハラ語文では、エチオピアが「望むならば」イタリアを仲介者として利用できるという任意的な表現にとどまっていた。この食い違いにより、イタリアは条約を根拠にエチオピア保護国化を国際社会へ通告し、エチオピア側は主権侵害として強く反発することになった。
解釈の対立と条約破棄
イタリア政府はウッチャリ条約締結後、列強各国に対しエチオピアが自国の保護国となったと通告し、紅海から内陸高原に至る勢力範囲を既成事実化しようとした。一方、メネリク2世とエチオピア側は、アムハラ語文に基づき、自国は独立国であり、外交上イタリアに拘束されないと主張した。この立場の相違は、条約の改訂交渉をめぐる軋轢となり、1893年にはメネリクがウッチャリ条約の破棄を宣言するに至った。
イタリアの保護国構想とアフリカ分割
イタリアが保護国化を主張した背景には、他の列強と同様にアフリカ内陸部を勢力圏として確保しようとする構想があった。ベルリン会議以降、列強は先占と条約を通じて「合法的」支配を主張しており、イタリアもウッチャリ条約を法的根拠として利用したのである。この構図は、北東アフリカにおける東アフリカ植民地化の過程を理解するうえで重要な事例となっている。
エチオピアの独立維持と外交
メネリク2世は、イタリアの保護国化構想を退けつつ、イギリスやフランス、ロシアなど他の列強とも接触し、武器購入や外交関係を多角化した。これによりエチオピアは、列強間の対立を巧みに利用しつつ、主権国家としての地位を守ろうとした。条約破棄は対立を激化させたが、同時にエチオピアが自立的な外交主体として行動していたことを示している。
第1次イタリア・エチオピア戦争と条約の無効化
ウッチャリ条約の解釈をめぐる対立は、やがて武力衝突へと発展した。1895年、イタリア軍はエチオピア高原への進撃を開始し、第1次イタリア・エチオピア戦争が勃発する。メネリク2世は諸地方の軍を糾合し、1896年のアドワの戦いでイタリア軍に大勝した。この敗北によりイタリアはエチオピアの保護国化を断念し、アドワ条約を通じてエチオピアの完全な独立を承認したため、ウッチャリ条約は実質的に無効となった。
アドワ勝利の象徴的意義
アドワでの勝利は、アフリカの独立国家がヨーロッパ列強の侵略を撃退した稀有な事例として記憶されている。ウッチャリ条約をめぐる争いは、単なる文言解釈の問題にとどまらず、植民地化に対する抵抗、主権国家としての地位をめぐる闘争の一部であった。エチオピアの勝利は、他のアフリカ・アジア地域における反植民地主義運動にも象徴的な励ましを与えたと評価される。
歴史的評価と今日的意義
ウッチャリ条約は、言語の違いが国際政治上の重大な対立を生みうることを示す典型例として、国際法史や外交史でしばしば取り上げられている。また、アフリカ分割の時代におけるエチオピアの独立維持と、列強間競争を利用した外交戦略を理解する手がかりともなる。イタリア側から見れば、帝国主義的膨張の挫折として、のちの対外政策や国内政治にも影響を与えた出来事であり、北東アフリカ地域の歴史、とりわけイタリアのアフリカ侵出とエリトリアの植民地支配を考察するうえで欠かせない条約である。