インドの反英闘争(20世紀)
インドの反英闘争(20世紀)は、イギリス帝国の長期にわたる支配に対して、インドの人々が政治的・経済的・社会的自立を求めて展開した運動である。初期には都市エリートを中心とする穏健な請願運動が主流であったが、やがてベンガル分割反対運動やスワデーシー運動を契機に、ボイコット・デモ・ストライキなど大衆的な抵抗へと発展した。第一次世界大戦後には、ナショナリズムの高まりと世界的な民主主義の潮流を背景に、インド国民会議とガンディーの指導による非暴力・不服従運動がインド全土に広がり、さらに革命的民族派やイスラーム勢力、農民・労働者運動も加わることで、多層的な反英闘争が形成された。
イギリス支配下のインドと民族運動の前提
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、植民地支配のもとでインドは原料供給地かつ製品市場として再編され、綿工業などの伝統産業が衰退した。インド人官僚や専門職は教育を通じて西洋の自由主義・民族自決の思想に触れ、自国社会の不平等な地位に強い違和感を抱いた。1885年に結成されたインド国民会議は、当初はイギリスへの協調を前提とした穏健な改革要求団体にすぎなかったが、次第に自治拡大や政治参加の拡充を求める民族運動の中心へと変化していった。
ベンガル分割反対運動とスワデーシー運動
1905年、イギリス政府は行政効率化を名目としてベンガル地方を宗教・民族の境界を無視して分割した。このベンガル分割は、民族運動の拠点であった地域を分断しようとする「分割して統治せよ」という政策と受け取られ、激しい反発を招いた。ヒンドゥー・ムスリムを超えた反対運動が展開され、イギリス製品のボイコットと国産品奨励を掲げるスワデーシー運動が広がる。学生や職人、商人、農民も参加し、以後の反英闘争における大衆動員のモデルが形づくられた。
ガンディーと非暴力・不服従運動
ガンディーは南アフリカでの人種差別反対運動を通じて独自の政治思想を形成し、1910年代後半からインド本国の運動指導者として台頭した。彼はサティヤーグラハ(真理の把持)と呼ばれる理念に基づき、暴力を避けつつ権力への協力を拒否することで正義を実現しようとした。1920年代の非協力運動では、官職辞任、英製品ボイコット、英政府主催行事の拒否などが呼びかけられ、多くの人々が逮捕されながらも全国規模の運動が展開された。
サティヤーグラハと民衆動員の特徴
サティヤーグラハは、宗教や身分を超えて人々を結びつける道徳的原理として提示された。塩の専売に対抗して行われた1930年の塩の行進は、その象徴的な出来事である。ガンディーは海岸まで徒歩で行進し、自然の塩を採取することで植民地政府の法に公然と違反した。この行動は世界中のメディアで報道され、インド人が自らの尊厳を取り戻そうとする姿を印象づけた。同時に、農民や都市の貧困層までを巻き込む運動となり、反英闘争はエリート層の政治交渉から、広範な民衆の直接行動へと重心を移した。
革命的民族運動とボースの路線
一方で、非暴力路線に限界を感じた一部の民族派は、武装闘争やテロリズムを通じてイギリス支配の打破を目指した。若いインテリ層を中心とする秘密結社は、高官暗殺や武器奪取を試み、イギリス当局から厳しい弾圧を受けた。スバス・チャンドラ・ボースは、インド国民会議の急進派として独立を即時要求し、第二次世界大戦期には枢軸国側の支援を受けてインド国民軍を組織し、日本軍と連携して戦う道を選んだ。この路線はガンディーの非暴力主義とは大きく異なっていたが、反英闘争に複数の戦略と指導者が存在したことを示している。
第二次世界大戦とクイット・インディア運動
第二次世界大戦が勃発すると、イギリスはインドの同意を得ないまま参戦を宣言し、人的・物的資源を動員した。これはインドの政治勢力に大きな不満を引き起こし、1942年には「インドから去れ」を意味するクイット・インディア運動が展開された。ガンディーとインド国民会議は全面的不服従を宣言し、全国でデモやストライキ、行政施設への攻撃が起こった。イギリスは指導者の一斉逮捕や軍隊の投入で弾圧したが、戦後には国内外の世論が自決権を支持する方向へ傾き、インド支配の維持は次第に困難になっていった。
独立と印パ分離への帰結
戦後の交渉の結果、イギリスはインドの自治付与から完全な独立へと方針を転換したが、ヒンドゥー多数派とムスリム少数派の対立は深刻化していた。全インド・ムスリム連盟は独自の国家構想を掲げ、最終的にパキスタンの分離独立が決定される。1947年に英領インドはインド連邦とパキスタンに分割され、多くの人々が宗教的境界を越えて移住する過程で暴力的衝突も発生した。このように20世紀のインドにおける反英闘争は、非暴力と武装闘争、多民族・多宗教社会の連帯と分裂という矛盾を抱えつつも、植民地支配の終焉と独立国家の誕生へと結びついていった。