インカの反乱
16世紀前半、インカ帝国はスペインのコンキスタドールによって急速に征服されつつあったが、その過程で先住の支配層や民衆は各地で激しい抵抗を行った。こうしたスペイン支配に対する一連の蜂起や戦争を総称してインカの反乱と呼ぶことができる。代表的なものには、マンコ・インカによるクスコ包囲戦とビルカバンバのインカによる山岳抵抗、さらに後世のトゥパク・アマルの大反乱などが含まれ、アンデス世界における長期の抗争の歴史を形づくった。
インカ帝国崩壊と反乱の前提
スペインの征服者ピサロは、内戦で弱体化したインカ王家を利用しつつ、1530年代に帝国の中心部を掌握した。彼はアタワルパを捕縛・処刑することで権威の空白を生み出し、クスコに拠点を構えて新たな支配体制を築いた。征服軍はキリスト教布教とエンコミエンダ制を通じて労働と貢納を強制し、多くの共同体に重い負担を課した。このような支配構造は、王家や貴族層だけでなく農民や職人にとっても耐えがたいものであり、武力抵抗の土壌を形成した点でインカの反乱の前提となった。
マンコ・インカの反乱とクスコ包囲
最初期で最大規模のインカの反乱は、インカ王家の一員マンコ・インカが主導した蜂起である。彼は当初、スペイン側に擁立された傀儡君主であったが、征服者たちからの侮辱と抑圧に耐えかねて反旗を翻し、1536年に数万とされる軍勢を動員してクスコを包囲した。インカ側は地形や城塞を活かして攻勢に出たが、火器と騎兵を備えたスペイン軍は市街防衛に成功し、長期戦の末に包囲は解かれた。この失敗は決定的であったものの、アンデス社会に「征服は不可逆ではない」という記憶を残した点で重要である。
山岳要塞への撤退とゲリラ戦
クスコ包囲に失敗した後、マンコ・インカはウルバンバ川上流のビルカバンバ地方へ撤退し、山岳の要害に拠って抵抗を継続した。いわゆる「ビルカバンバのインカ」と呼ばれるこの政権は、形式上はインカ王家の継続政権として、周辺の先住民共同体に反乱を呼びかけ、スペイン領内でのゲリラ戦や蜂起を支えた。こうした山地での持久戦は、メソアメリカ地域におけるアステカ王国の滅亡後の状況と異なり、アンデス世界における抵抗のしぶとさを示している。
ビルカバンバ陥落と王家支配の終焉
16世紀後半になると、スペイン帝国はアンデス支配を安定させるため、ビルカバンバへの総攻撃を決断した。1572年、副王フランシスコ・デ・トレドの命令のもとスペイン軍が山岳要塞を攻略し、最後の王トゥパク・アマル1世を捕らえて処刑した。これによりインカ王家による組織的なインカの反乱は終息し、アンデス高地は副王領体制のなかに完全に組み込まれていった。しかし、地方の共同体レベルでは、その後も税負担や労役に対する小規模な蜂起が各地で続き、征服の完成が多層的な過程であったことを示している。
トゥパク・アマル2世の大反乱
18世紀後半には、インカ王家の末裔を自称するトゥパク・アマル2世が、先住民やメスティソを動員して大規模な蜂起を起こした。この反乱は、植民地期後期における税制改革やミタ制による鉱山労働の強制など、累積した不満が爆発したものであり、アンデス一帯を巻き込む戦争へと発展した。最終的にスペイン当局によって鎮圧され、指導者は苛烈な処刑を受けたが、その記憶は後の独立運動において象徴として受け継がれた。この運動も広い意味でインカの反乱の連続線上に位置づけられる。
インカの反乱と世界史的文脈
インカの反乱は、単なる地方的な反乱ではなく、大航海時代以降のヨーロッパ拡張に対する先住社会の応答として理解される。メソアメリカではコルテスによる征服後、比較的早期に支配構造が固定化したのに対し、アンデス世界では山岳地形と共同体組織を背景に、武力抵抗と文化的適応が長期にわたり並存した。インカ帝国の滅亡をめぐる争いは、コンキスタドールの軍事的優位と、先住民社会の主体的行動の双方を映し出す事例であり、世界史における帝国と被支配民の関係を考える上で不可欠なテーマとなっている。