イスラーム世界での黒人奴隷貿易
イスラーム世界での黒人奴隷貿易は、初期イスラーム期から近代に至るまで、サハラ以南アフリカと中東・北アフリカ・インド洋地域を結びつけた長期的な現象である。征服と商業が進展するなかで、奴隷は労働力・軍事力・家内労働力として需要が高まり、イスラーム世界の社会構造や人口構成に大きな影響を与えた。
イスラーム世界と奴隷制度
イスラーム教は、奴隷の存在自体を全面的には禁止しなかったが、コーランやハディースにおいて奴隷の保護や解放の奨励が説かれ、法学者は売買・待遇・解放の細かな規則を整備した。奴隷は「戦場で捕らえられた非ムスリム」や「イスラーム圏外で購入された異教徒」とみなされ、ムスリムであることが原則として奴隷化の防波堤となった一方、現実には規範から逸脱する形で黒人奴隷が不断に供給された。
供給地域と交易ルート
黒人奴隷の主な供給源は、ナイル上流域からサヘル地帯にかけての「スーダン」と呼ばれた地域や東アフリカ沿岸であった。サハラ砂漠を縦断する「トランス=サハラ交易」では、金や塩とともに黒人奴隷が北アフリカの都市へ運ばれ、そこから地中海世界やオスマン帝国各地に再分配された。また紅海ルートやインド洋交易を通じて、東アフリカからアラビア半島・ペルシア湾岸・インド西岸へ奴隷が輸送され、スワヒリ商人やアラブ商人が仲介者として重要な役割を担った。
黒人奴隷の役割と利用形態
黒人奴隷は農業労働、牧畜、家庭内奉公、港湾労働など多様な仕事に従事した。特にイラク南部の湿地帯では、黒人奴隷が大規模な開拓と農作業に動員され、過酷な労働条件が社会不安を高めた。宮廷や富裕層の邸宅では、女性奴隷が家事や侍女、後宮の一員として用いられ、男性奴隷の一部は去勢されて後宮や聖地の管理にあたる宦官とされた。このような性別・役割の偏りは、後の大西洋奴隷貿易と比べた際の重要な相違点とされる。
アッバース朝期の反乱と社会不安
アッバース朝期のイラク南部で起こった「ザンジュの乱」は、黒人奴隷を中心とする大規模な反乱として知られる。製糖用農園や開拓事業に酷使された黒人奴隷たちは、9世紀後半に長期にわたる武装蜂起を行い、バスラ一帯を揺るがした。この事件は、奴隷制が帝国の経済基盤を支える一方で、社会不安と暴力の潜在的火種でもあったことを象徴している。
イスラーム法と奴隷解放
イスラーム法は、奴隷への残虐行為を原則として禁じ、主人の自発的な解放(マナミシパシオン)を徳の高い行為と評価した。信仰上の贖罪行為として奴隷解放が規定されることで、一部の奴隷は子孫とともに自由身分へ上昇する道を得た。またムダーッバやウムム・ワラドなど、解放を前提とした契約形態も存在し、黒人奴隷の一部は都市社会に定着して職人や兵士として活動するようになった。
大西洋奴隷貿易との比較
近世以降、西欧諸国が展開した近代ヨーロッパの植民地経営では、アメリカ大陸へ向かう大西洋奴隷貿易が爆発的な規模で発展した。これに対しイスラーム圏の黒人奴隷貿易は、時間的にはより長期に及んだが、総数では必ずしも大西洋経路を上回らなかったと考えられる。またアメリカのプランテーションに比べ、イスラーム圏では家内奴隷や軍事・行政奴隷の比重が高く、黒人奴隷の社会への組み込み方や人種観も一様ではなかった。
近代以降の廃止と残された課題
19世紀になると、ヨーロッパ列強によるアフリカ進出と人道主義的な世論の高まりのなかで、オスマン帝国やアラブ諸国も奴隷貿易と奴隷制の段階的廃止を進めた。しかしインド洋や紅海沿岸では長く密貿易が続き、黒人奴隷の子孫の社会的差別や周縁化は根強く残った。イスラーム世界における黒人奴隷の歴史は、宗教的規範・経済構造・人種観が複雑に絡み合う問題として、現在もなお研究と議論の対象となっている。