アヴェスター
アヴェスターは、古代イラン発祥のゾロアスター教における聖典であり、善悪二元論を説く世界観や儀礼手続きが詳しく記されている。現在に伝わる版は主にササン朝時代に編纂されたもので、原初の形態を完全に留めているわけではないが、それでも古代宗教思想やイラン語の変遷を知る手がかりとして重要な価値を持つ。一部は詩形の「ガーサー」と呼ばれ、教祖ゾロアスター自身の言葉を伝えるとされ、善なるアフラ・マズダへの賛歌や、人間が選択すべき正しき行いを説く教義が込められている。
成立と編纂の歴史
アヴェスターの起源は紀元前1000年頃にまで遡るとも言われているが、正確な時期は学問的に議論の余地がある。アケメネス朝やパルティア朝を経る過程で、口承ベースの聖典が徐々に書き起こされ、ササン朝期に国教としてのゾロアスター教を支えるべく体系化された。特にサーサーン朝の王たちは聖典の整備に注力し、多言語資料を参照しながら写本を増やす試みを行ったが、後世のイスラーム勢力の進出や戦乱によって多くの写本が失われ、現在でも断片的な資料しか残されていない部分が多い。
ガーサーとその特徴
アヴェスターの中核部分ともいえる「ガーサー(Gathas)」は、教祖ゾロアスター自身が唱えた詩歌で構成されているとされる。ここでは善なるアフラ・マズダと悪なるアーリマンの対立が明確に示され、人間がどちらの陣営に立つかが社会や世界の秩序に大きく関わると説く。ガーサーの言語はアヴェスター語の中でも特に古形を保ち、文献学的見地からはインド・ヨーロッパ語族の研究においても極めて貴重である。
内容の構成
- ヤスナ:祭儀の手順や聖句を集めた中心部分
- ガーサー:ゾロアスターの詩的祈りを含む最重要パート
- ヴィスパ・ラトラ:ヤスナの補足祭儀とされる箇所
- ヴェンディダー:純粋性や死者の扱い、戒律などを網羅
宗教儀礼との関連
ゾロアスター教の信徒たちは、聖典であるアヴェスターの章句を唱えながら火を中心とする儀礼を行う。特にヤスナは祭壇で聖火を維持し、神々に捧げる飲料としてのハオマを用意するなど、古代イランの伝統的世界観が色濃く反映されている。こうした宗教的実践は王権の正統性とも結びつき、ササン朝では国家の政治行為として盛大に執り行われ、国民の精神的統合を支える柱となっていた。
言語学的価値
アヴェスターに用いられるアヴェスター語は、インド・ヨーロッパ語族のイラン語群に属し、古代ペルシア語よりも古風な特徴を多く残している。語彙や文法の研究を通じて、サンスクリットやギリシア語との比較言語学が進められ、インド・ヨーロッパ祖語の再構にも大いに寄与してきた。この言語的多様性は、古代オリエントとインド亜大陸をまたぐ文化的交流の証拠にもなっており、各種碑文や粘土板文書と合わせた学際的研究も活発である。
イスラーム時代と保存の苦難
7世紀以降、イスラーム勢力の台頭によりゾロアスター教はイラン高原で少数派となっていった。多くの聖堂が破壊され、写本の写し取りや修復の機会も限られ、アヴェスターのテキストは散逸の危機にさらされた。それでも一部の信徒や学者がインドのグジャラート地方などへ移住してパールシー共同体を築き、宗教の伝統を維持したおかげで、貴重な手稿が辛うじて後世に伝わる結果となった。
現代の学術研究
近代以降、ヨーロッパやアメリカを中心にゾロアスター教研究が本格化すると、アヴェスターの写本解析や比較言語学、宗教史の観点からの総合的アプローチが進められた。デジタル技術の進展により写本の高精細画像が公開される例も増え、テキストの相違点や改変箇所を国際的に検証する取り組みが行われている。こうした学界の連携により、長い歴史の中で欠落や改変が生じた部分の再構築にも期待が寄せられている。
文化遺産としての意義
アヴェスターは、単に古代イランの宗教書としてだけでなく、世界の宗教史や思想史を学ぶうえで極めて重要な文献である。善悪二元論の源流を示すだけでなく、自然や死生観、社会規範など、古代人の生活全般がどのように神聖視され、秩序付けられていたかを明確に浮かび上がらせる。さらにこの書物を通じて形成された儀礼や倫理観は、後のユダヤ教、キリスト教、イスラームにも何らかの影響を及ぼしたと指摘されており、宗教間比較の重要テキストとして今日でも注目を集めている。