アフリカ縦断政策|イギリスの南北支配構想を解説

アフリカ縦断政策

アフリカ縦断政策とは、イギリスが19世紀末から20世紀初頭にかけて構想した、エジプトのカイロから南アフリカのケープタウンまでを、連続した植民地支配と交通網によって結びつけようとする帝国政策である。いわゆる「ケープ・トゥ・カイロ構想」として知られ、アフリカ分割が進むなかで、列強間の領土競争と密接に結びついて展開した。この構想は、後にフランスのアフリカ横断政策と衝突し、ファショダ事件などの外交的危機を生み出した点でも重要である。

構想が生まれた歴史的背景

アフリカ縦断政策が構想された背景には、19世紀後半の帝国主義時代におけるヨーロッパ列強の激しい領土獲得競争があった。特にベルリンで開かれたベルリン会議(1884-85)以降、アフリカ大陸は「先占権」の原則のもとで急速に分割され、イギリスもインド洋と大西洋を結ぶ要地の確保に動いた。スエズ運河の支配、紅海沿岸の港湾、ナイル流域の支配は、イギリス海上帝国の生命線とみなされ、北から南への連続した支配圏の形成が安全保障と経済戦略の両面で重視されたのである。

セシル・ローズとケープ・カイロ構想

アフリカ縦断政策を象徴する人物が、南アフリカの実業家・政治家セシル・ローズである。ローズはダイヤモンド産業で巨富を築き、ケープ植民地首相として、ケープタウンからローデシア、さらには東アフリカを経てエジプトのカイロに至る、連続したイギリス勢力圏の構築を唱えた。彼は鉄道と電信で大陸を縦断する「ケープ・カイロ鉄道」を夢見て、実際に南部アフリカではローデシア方面への線路建設が進められた。この構想は、単に経済的利潤の追求だけではなく、イギリス帝国の威信と世界支配の象徴として位置づけられていた。

アフリカ探検と勢力圏拡大

アフリカ縦断政策を具体化するうえで重要だったのが、アフリカ探検の進展である。ヴィクトリア湖やタンガニーカ湖周辺、ザンベジ川流域などの内陸部は、スタンリーをはじめとする探検家によって地理情報が収集され、その情報にもとづいて植民地境界線や「勢力圏」の線引きが行われた。イギリスは東アフリカやウガンダを保護領化し、さらにローデシア、南アフリカ連邦へと支配を拡大したが、それは縦断的な連続支配の「鎖」をつなぐ作業でもあった。

コンゴ盆地とベルギーの進出

一方で、中央アフリカのコンゴ盆地では、ベルギー国王レオポルド2世スタンリーらを利用して現地に拠点を築き、私的領有国家としてコンゴ自由国を成立させた。のちにベルギー領コンゴとなるこの地域は、イギリスの縦断ルートとフランスの横断ルートの交差点に位置し、列強間の調整対象となった。ベルリン会議によってコンゴ盆地はベルギー王の支配が承認され、イギリスはこの地域を迂回しつつ、東アフリカと南部アフリカを結びつける必要に迫られたのである。

フランスのアフリカ横断政策との対立

アフリカ縦断政策は、フランスがアルジェリア・西アフリカからチャド湖・スーダンを経てジブチ方面へ至る「アフリカ横断政策」と鋭く対立した。フランスにとっても、西アフリカとインド洋沿岸を結ぶ連続的支配は、国家の威信と戦略的優位を示す重要な構想であった。イギリスの縦断とフランスの横断の交差点は、ナイル上流やスーダン地域にあり、そこへの軍事・外交的進出をめぐって緊張が高まった。この英仏対立は、世界分割と列強対立の象徴的な局面として位置づけられる。

ファショダ事件と妥協

こうした対立が最高潮に達したのが1898年のファショダ事件である。フランスの遠征隊とイギリス軍がスーダンのファショダ(現在のコドク)で対峙し、一時は武力衝突も懸念された。しかし最終的にはフランス政府が譲歩し、ナイル流域の支配権はイギリスに認められた。この妥協により、アフリカ縦断政策は外交的には大きく前進し、イギリスはエジプト・スーダンから東アフリカ・ローデシア・南アフリカへと連なる勢力圏を確保する道筋を固めた。他方でフランスはサハラ以南西アフリカに対する支配を強め、英仏は利害調整を通じて協商関係へと傾斜していく。

鉄道網の建設と現実の到達点

ローズが描いた「ケープ・カイロ鉄道」は、実際には大陸を完全に縦断する一本の線として完成することはなかった。エジプトからスーダン、さらに東アフリカ・ローデシア・南アフリカへと個別の路線は整備されたものの、政治的対立や資金難、地形・気候の制約によって、構想どおりの連続鉄道は実現しなかった。それでも、アフリカ縦断政策に沿って敷設された鉄道と通信網は、資源開発や植民地支配の効率化に大きく寄与し、アフリカの地域経済構造や国境線の形成に長期的な影響を与えたのである。

アフリカ縦断政策の意義と影響

アフリカ縦断政策は、その多くが構想段階にとどまりつつも、イギリス帝国主義の膨張の方向性と、列強がどのようにアフリカ大陸を空間として「設計」しようとしたかを示す重要な事例である。縦断と横断の構想は、単に地図上の線としてではなく、軍事基地、港湾、鉄道、電信網など具体的なインフラ整備として推し進められた。その結果として形成された国境線や交通ルートは、植民地独立後も多くのアフリカ諸国に引き継がれ、地域間格差や政治的対立の背景となっている。アフリカ分割世界分割と列強対立とあわせて検討することで、この政策が持つ長期的な歴史的意味がより明瞭になると言える。