アドワの戦い
概要
1896年3月1日に北部エチオピアのアドワ近郊で行われたアドワの戦いは、皇帝メネリク2世率いるエチオピア軍がイタリア軍に決定的勝利を収めた戦闘である。この勝利によってエチオピアは独立を保ち、ヨーロッパ列強によるアフリカ分割のなかで数少ない独立国家として国際的地位を高めた。黒人国家が欧州列強に勝利したという事実は、後のアフリカや黒人世界の反植民地運動に象徴的な意義を持つ出来事となった。
歴史的背景
19世紀後半、ヨーロッパ列強は帝国主義政策のもとでアフリカ各地を植民地化していた。新興国であったイタリアのアフリカ侵出もその一環であり、紅海沿岸のエリトリアを拠点に勢力拡大を図った。1889年に締結されたウッチャリ条約は、条文解釈の違いからエチオピアがイタリアの保護国かどうかをめぐる対立を生み、両国関係を急速に悪化させた。この対立が最終的に軍事衝突へと発展し、アドワの戦いを引き起こしたのである。
エチオピア側の体制と軍事力
メネリク2世は首都アディスアベバを拠点とし、各地方の有力諸侯であるラースたちをまとめて大規模な動員を行った。エチオピア軍は伝統的な槍や剣を用いる戦士に加え、近代的な小銃や砲を備えた部隊を有し、地形に精通した兵士が多かったことも強みであった。ロシアやフランスなどから武器・軍事顧問がもたらされたことも、近代戦に対応するうえで重要であった。こうしてアドワの戦いにはおよそ数十万規模ともいわれる兵力が結集し、国家と教会が一体となった「聖戦」として戦いに臨んだのである。
イタリア軍と植民地支配構想
一方のイタリア軍は、エリトリア植民地軍を基礎とし、本国から派遣された正規軍と現地で徴募したアスカリ部隊から構成されていた。イタリア政府はエチオピアを形式的にでも保護国とし、東アフリカでの地位を高めることを狙っていた。しかし、現地の実情に対する理解は浅く、兵力規模や補給能力に比して過大な作戦を計画したことが弱点となった。とくに山岳地帯での行軍や住民の動向に関する情報不足は、のちにアドワの戦いで致命的な結果をもたらした。
戦闘の経過
1896年初頭、イタリア軍はエチオピア軍が分散していると誤認し、アドワ方面への前進を決定した。だが実際にはメネリク2世は諸侯の軍勢を集結させており、エチオピア軍は山岳地帯の有利な地形を利用して待ち構えていた。イタリア軍は夜間行軍の混乱から部隊が分断され、夜明けとともにエチオピア軍の一斉攻撃を受けることになった。包囲され各個撃破されたイタリア軍は大きな損害を出して総崩れとなり、多くの将兵が戦死・捕虜となった。こうして短時間のうちにアドワの戦いはエチオピア側の圧倒的勝利に終わったのである。
地形と戦術の重要性
戦場となったアドワ周辺は険しい山岳地帯であり、この地形に慣れたエチオピア軍は高地からの攻撃や側面攻撃を効果的に行うことができた。逆にイタリア軍は地形把握や偵察に失敗し、疲労した状態で狭い谷筋に集中していたため、包囲攻撃に対応できなかった。近代兵器の優位をもつはずのイタリア軍が、地形と兵力配置を誤ったことで敗北した点は、他地域のソマリランドやアフリカ各地の植民地戦争とも共通する教訓といえる。
講和と国際的な影響
大敗を喫したイタリアは、国内で政権批判が高まり、エチオピアとの講和交渉に応じざるをえなくなった。1896年のアディスアベバ条約によってウッチャリ条約は事実上破棄され、イタリアはエチオピアの完全な主権と独立を正式に承認した。これにより、エチオピアはアフリカ分割の時代においても独立国家として存続し、アフリカで唯一欧州列強に軍事的勝利を収めた国家として象徴的な位置を占めることになった。
反植民地運動への象徴性
アドワの戦いの勝利は、アフリカのみならずカリブ海やアメリカ合衆国の黒人知識人にも大きな感銘を与えた。エチオピアの独立と勝利は、白人支配に対抗しうる黒人国家の象徴として語られ、のちのパン=アフリカ運動や各地の民族解放運動の言説の中で繰り返し参照されたのである。また、この戦いは帝国主義時代の軍事技術だけでなく、政治的統合や外交、情報収集といった要素が勝敗を左右することを示した点でも重要であり、植民地支配と抵抗の歴史を理解するうえで欠かせない事件となっている。