アウステルリッツの戦い
アウステルリッツの戦いは、1805年12月2日にモラヴィア地方のアウステルリッツ(現在のチェコ共和国スラフコフ・ウ・ブルナ)近郊で行われた戦いである。フランス皇帝ナポレオン1世と、オーストリア皇帝フランツ2世・ロシア皇帝アレクサンドル1世が対峙したことから「三帝会戦」とも呼ばれ、ナポレオン戦争期を代表する会戦として知られる。この戦いにおけるフランス軍の勝利は、ハプスブルク帝国とロシア帝国に大打撃を与えるとともに、ヨーロッパ大陸におけるナポレオンの覇権を決定づけた。
歴史的背景
ナポレオンはフランス革命後の混乱を収束させ、1799年のブリュメール18日のクーデタを経て統領政府を樹立し、その後第一帝政を開いて自ら皇帝となった。これに対して、イギリス・オーストリア・ロシアなどが結成したのが第3回対仏大同盟である。1805年、ナポレオンはイギリス本土上陸作戦の準備を進めていたが、同盟軍が大陸側でフランス勢力を脅かしはじめたため、イギリス侵攻を断念し、中欧へと主力軍を転進させた。オーストリア軍はウルムで包囲・降伏し、さらにフランス軍はウィーンを占領するが、ロシア軍と合流した連合軍は決戦を求め、モラヴィアのアウステルリッツ周辺で両軍が対峙することになった。
参戦勢力と指揮官
フランス側の指揮官は皇帝ナポレオン1世であり、その配下にはスルト、ランヌ、ベルナドットなど有力な元帥が名を連ねていた。フランス軍は約7万前後とされ、連戦によって鍛えられた職業軍人と徴兵兵が混在しつつも、高い機動力と統一的指揮系統を特徴としていた。これに対し、オーストリア皇帝フランツ2世とロシア皇帝アレクサンドル1世は連合軍の象徴的存在であったが、実際の指揮はロシア軍のクトゥーゾフら将軍に依存していた。連合軍は兵力でフランス軍を上回っていたものの、作戦の主導権や戦略目標をめぐって意見がまとまらず、統一的な指揮の欠如が弱点となった。
戦場と作戦計画
戦場は起伏に富んだ丘陵地帯で、とりわけプラツェン高地が戦略上の要地とみなされていた。ナポレオンはあえてこの高地の一部から兵力を引き、フランス軍右翼を弱く見せかけることで、連合軍を南方へ誘い出す作戦を立てた。連合軍はフランス右翼の突破によって敵軍の退路を断とうと考え、中央の高地から兵力を割いて南に進撃させる計画を採用した。この判断は、戦場の中心となるプラツェン高地を一時的に手薄にする結果を招き、ナポレオンの逆襲を受ける隙を生むことになった。
連合軍の構想と弱点
連合軍の作戦は、一見すると兵力の優勢を活かしてフランス軍の側面を突くものであり、伝統的な包囲戦術に沿ったものであった。しかし、複数の軍団が別方向から同時に行動するには綿密な協調が必要であり、指揮系統の複雑さや地形への理解不足が大きな制約となった。また、ナポレオンが和平交渉を装って時間を稼ぎ、連合軍の油断を誘ったことも、連合軍が慎重さを欠いた判断を下す一因になったとされる。
ナポレオンの戦術と準備
ナポレオンは、敵が自軍右翼を攻撃してくることを想定し、中央に精鋭部隊を温存しておいた。霧の多い戦場環境や冬季の気候を利用し、フランス軍の真の兵力配置を隠蔽することで、奇襲効果を高めようとしたのである。プラツェン高地をめぐる攻防で、スルト軍団を中心とした部隊が高地を一気に突き崩す構想は、彼の戦場把握能力と機敏な集中攻撃原則を体現したものと評価されている。
戦闘の経過
- 早朝、濃霧の中で戦闘が始まり、連合軍はフランス軍右翼への攻撃に主力を投入した。
- 連合軍が南方へ兵力を移動させる一方で、フランス軍中央のスルト軍団がプラツェン高地への攻勢を開始し、連合軍中央を分断した。
- 高地を掌握したフランス軍は、戦場全体を見下ろす有利な位置から砲撃と歩兵突撃を繰り返し、連合軍の各部隊を各個撃破した。
- 右翼で粘っていた連合軍部隊は退路を断たれ、一部は凍結した湖面付近に追い込まれ、多数の捕虜と損害を出したと伝えられる。
このように、連合軍の攻撃は局地的には激しいものであったが、全体としては主導権を握ったフランス軍の反撃の前に分断され、統制を失った形で崩壊していったと理解されている。
結果と損害
会戦の結果はフランス軍の圧勝であり、連合軍は甚大な損害を受けた。戦死・負傷・捕虜の総数は連合軍側がフランス軍を大きく上回ったとされ、熟練兵や将校を多数失ったことは、その後の戦争継続能力にも影響を及ぼした。フランツ2世は講和を余儀なくされ、プレースブルク条約によって領土割譲や賠償金支払いを受け入れた。一方、ナポレオン側も決して損害が小さかったわけではないが、政治的・戦略的な成果は失われた兵力を補って余りあるものと評価された。
政治的・軍事的影響
アウステルリッツの勝利は、ナポレオンの軍事的天才というイメージをヨーロッパ全土に強く印象づけた。オーストリアはドイツ方面での影響力を失い、やがて神聖ローマ帝国は事実上解体へと向かう。ナポレオンはドイツ諸邦を再編し、ライン諸邦を中心とする新たな秩序を構築することで、大陸における支配体制を強化した。他方、海上ではイギリスがトラファルガーの海戦で制海権を確立しており、アウステルリッツの勝利は「大陸の覇者ナポレオン」と「海の覇者イギリス」という構図を決定的にする契機ともなった。
ナポレオン体制との関係
この戦いによって、ナポレオンは自らの体制の正当性と安定を誇示し、国内外に対して権威を高めた。彼が主導したナポレオン法典やフランス民法典、金融制度を整備したフランス銀行などの諸制度は、軍事的成功によっていっそう強力な政治基盤を得たといえる。また、教皇庁との妥協を図ったコンコルダートや、より広い意味での宗教協約政策も、こうした勝利を背景として進められた。アウステルリッツの戦いは、単なる一会戦にとどまらず、ナポレオン体制の頂点を象徴する出来事として歴史上に位置づけられている。