アウスグライヒ
アウスグライヒ(独: Ausgleich)は、1867年に締結されたオーストリアとハンガリーとの政治的妥協であり、両者の関係を再編して「オーストリア=ハンガリー二重帝国」を成立させた制度である。この妥協により、旧オーストリア帝国は単一国家から、オーストリア側(ツィスライタニエ)とハンガリー側(トランスライタニエ)という二つの国家が同君連合をなす二重体制へと転換した。形式上は一人の皇帝が両国の元首を兼ねるが、内政はそれぞれ独自の議会と政府が担い、外交・軍事・一部の財政のみが共通の機関で運営される構造であった。こうした枠組みは、帝国内の多民族問題を一時的に緩和しつつも、新たな矛盾を生み出す要因ともなった。
成立の歴史的背景
アウスグライヒ成立の背景には、1848年革命以降に深まったハプスブルク家支配への不満と、ハンガリー民族運動の高まりがあった。1848年の革命では、ハンガリーは一時的に独立を宣言したが、ロシアの援軍を得たウィーン政府によって鎮圧され、絶対主義的な中央集権統治が再び強められた。その後もハンガリー側には自治回復への強い要求が残り、帝国政府は内政の安定に苦しんだ。
さらに、1859年のイタリア統一戦争や1866年の普墺戦争において、オーストリアは相次いで敗北し、帝国の国際的地位は低下した。とくに普墺戦争でドイツ帝国の母体となるプロイセンに敗れたことは、ドイツ世界での主導権を失ったことを意味し、内政の立て直しが急務となった。このような対外的敗北が、ハンガリーとの妥協を通じて帝国の再編を図る動きを後押ししたのである。
二重帝国体制の枠組み
アウスグライヒにより、ウィーンを中心とするオーストリア側と、ブダペストを中心とするハンガリー王国側は、それぞれ独自の議会と内閣を持つ対等な「国家」と位置づけられた。皇帝フランツ=ヨーゼフ1世は、オーストリア側では「皇帝」、ハンガリー側では「国王」として別々に戴冠し、同一人物が二つの国家元首を兼ねる同君連合の形をとった。これにより、ハンガリー側は内政における広範な自治権を獲得した。
一方で、帝国全体に関わる外交・軍事・共通財政は、ウィーンに置かれた共通省庁が担当した。共通外務省・共通陸軍省・共通財務省が設けられ、両国の代表からなる「代表者会議(デレガツィオーン)」がこれらを監督する仕組みが整えられた。このようにアウスグライヒは、単一国家の中央集権を放棄しつつも、軍事力と外交政策は統一して維持するという折衷的な制度構想であった。
民族問題と制度の限界
しかしアウスグライヒは、帝国内の全ての民族問題を解決したわけではなかった。むしろ、ドイツ系とマジャル(ハンガリー人)を優越的地位に置き、チェコ人、スロヴァキア人、ルーマニア人、南スラヴ系など多数の少数民族を従属的地位に置いたことで、新たな不満を生み出した。とくにハンガリー側では、マジャル人支配のもとでスロヴァキア人やルーマニア人に対する同化政策が進められ、民族運動の対立はかえって激化した。
オーストリア側でも、ボヘミアのチェコ人などが自治拡大を求め、議会はしばしば対立と妨害で機能不全に陥った。のちにバルカン問題が深刻化すると、帝国外のスラヴ民族運動と帝国内のスラヴ民族との連帯が強まり、二重帝国体制は揺らぎを増していく。この点でアウスグライヒは、短期的には帝国の統合を維持したが、中長期的には民族対立を構造的に内包した不安定な妥協でもあったといえる。
外交政策と同盟関係への影響
アウスグライヒによって成立したオーストリア=ハンガリー二重帝国は、やがてドイツとの緊密な提携を深める。ビスマルク外交のもとで結ばれた三帝同盟や、ロシアとの関係悪化後に締結された独墺同盟は、二重帝国がドイツを基軸とする同盟網に組み込まれていく過程を示すものであった。続く三国同盟により、二重帝国はドイツ・イタリアとともにヨーロッパの勢力均衡における一極を構成した。
こうした同盟関係の背後には、ロシアやバルカン諸国との対立があった。オーストリア=ハンガリーは、バルカン半島への影響力拡大を目指しつつ、帝国内外のスラヴ民族運動を警戒したため、ロシアとしばしば利害を衝突させた。この構図は、のちにサラエヴォ事件を契機として勃発する第一次世界大戦に至るまで続き、二重帝国の存続に重大な影響を与えることになる。
バルカン問題との関連
アウスグライヒ体制のもとで、オーストリア=ハンガリーはバルカン半島への進出を本格化させた。帝国は、帝国内のスラヴ民族運動を抑え込むためにも、対外的な勢力圏拡大を通じて威信を高めようとしたのである。たとえば、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの占領・併合は、帝国の安全保障やバルカン支配を強化する試みであったが、セルビアやロシアの強い反発を招いた。このように、二重帝国体制は内政面だけでなく、対外政策、とりわけバルカン問題と密接に結びついていた。
- 帝国内スラヴ民族運動の高まり
- バルカン半島における領土・影響力争い
- ロシアとの対立と国際的孤立の進行
政治的意義と評価
アウスグライヒは、絶対主義的な中央集権体制から、民族運動を部分的に取り込んだ新たな統治構造への転換であった点で、近代ヨーロッパ政治史上重要な節目と評価される。単一の帝国を維持しながら、地域ごとの自治と多民族支配をどう調和させるかという課題に対する、ひとつの歴史的回答であったといえる。とはいえ、その解決は不完全であり、ドイツ系とマジャル系の優位を前提とした制度設計は、他民族を周縁化する構造を固定化した。
その結果、帝国は国民統合に失敗し、戦争と革命の中で解体へと向かうことになった。第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー二重帝国が消滅するとアウスグライヒの枠組みも終焉したが、多民族国家における権力配分と自治制度をめぐる問題は、現代に至るまでヨーロッパ政治の重要なテーマであり続けている。二重帝国体制の経験は、連邦制や自治制度の設計を考えるうえで、今なお参照される歴史的事例である。