えた(穢多)|日本近世における被差別身分の呼称

えた(穢多)

えた(穢多)とは、中世から近世にかけての日本において、特定の職能に従事することを理由に、社会の枠外に置かれた身分層の一つである。一般的には、死牛馬の処理や皮革の加工、あるいは清掃や警備といった、当時の仏教観や神道における「穢れ(けがれ)」に関わる仕事に携わっていた人々を指す。江戸幕府が確立した身分制度のもとで、「平民」とは明確に区別される最下層の身分として固定化され、居住地域や衣服、婚姻などにおいて厳しい制限と差別を受けた。明治維新後の1871年に「解放令」が布告されるまで、制度的な差別構造が継続された。現代における部落問題の歴史的な起源の一つとして理解されている。このえた(穢多)という呼称は、歴史学上の学術用語として用いられるが、今日では不当な差別を助長する恐れがあるため、文脈を慎重に扱うべき言葉とされる。

えた(穢多)の歴史的起源

えた(穢多)という呼称の成立は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての文献にまで遡ることができる。もともとは「餌取(えとり)」、すなわち鷹狩りの鷹の餌となる肉を調達する職能集団を指していたとする説が有力である。中世においては、死んだ牛馬の解体や皮革の製作は、武具の製造や農業に欠かせない重要な技術であった。しかし、鎌倉時代以降、浄土宗や法華宗といった鎌倉新仏教の普及や殺生禁断思想の浸透に伴い、血や死に触れる行為が「穢れ」として忌避されるようになった。その結果、それらの職能を独占していた人々は、一般の社会から切り離された特異な集団として認識されるようになった。室町時代には、寺社や権力者の管理下で清掃や処刑の執行などに従事する「河原者」や「非人」といった集団と混交しながら、独自の社会階層を形成していった。中世までは、ある程度の職能的な自由や特権を有していた面もあったが、近世へと向かう過程でその地位は次第に固定化されていった。

江戸時代における身分制度の確立

江戸時代に入ると、徳川幕府は兵農分離を進めるとともに、統治の便宜上、国民を「士農工商」という枠組みに組み込んだ。この際、えた(穢多)は「人外」の身分として、平民の下に置かれることとなった。幕府や諸藩は、彼らを特定の「部落(集落)」に住まわせ、農民や町人との雑居を禁止した。さらに、他身分との婚姻の禁止、衣服の素材や色、履物の指定、さらには髪型に至るまで、外見で判別できるように細かく規定された。この時期のえた(穢多)は、各地域の「頭(かしら)」によって統轄されており、関東では浅草を拠点とした「弾左衛門」が強大な権限を持ち、広範囲のえた(穢多)や非人を支配していた。このような制度的な隔離と差別は、近世社会の安定を維持するための「見せしめ」や、下層民の不満を逸らすための身分操作としての側面もあったと考えられている。

社会的職能と経済基盤

えた(穢多)は差別的な扱いを受ける一方で、特定の職能を独占する特権も保持していた。主な生業は以下の通りである。

  • 死牛馬の処理および皮革の加工・販売(太鼓の皮、武具、履物など)
  • 皮革製品の製造に伴うニカワ(接着剤)の製作
  • 牢屋の管理、刑執行の補助、捕縛といった警察・司法業務
  • 竹細工、灯心の製造、あるいは庭園の造営(作庭)

特に皮革業は、軍事・産業の両面で極めて重要であり、大きな富を蓄えるえた(穢多)の長も存在した。しかし、これらはあくまで「穢れた仕事」として社会から蔑視される要因となり、経済力があったとしても社会的な地位が向上することはなかった。また、多くのえた(穢多)は、わずかな自作地や小作地での農業に従事していたが、その負担は平民よりも重い場合が多く、生活は困窮を極めることが一般的であった。

明治維新と解放令の布告

日本史における大きな転換点となった明治維新により、四民平等の思想が導入された。1871年(明治4年)、明治新政府は「太政官布告」を出し、えた(穢多)や非人といった称呼を廃止し、その身分や職業を平民と同等に扱うとする、いわゆる「解放令」を公布した。しかし、この法令は形式的な身分の変更を告げるのみで、生活再建のための経済的な支援や、根深い社会的差別を取り除くための教育的措置を伴わなかった。むしろ、それまでえた(穢多)が独占していた死牛馬処理の利権や、免税の特権が奪われたことで、経済的にはさらに困窮する結果となった。また、一般の農民や町人の間では「自分たちと同じ身分になること」への反発が強く、各地で「解放令反対一揆(竹槍一揆)」が発生し、多くの犠牲者が出た。このように、法的な差別は撤廃されたものの、実質的な社会構造としての差別は維持されることとなった。

近現代における差別と部落解放運動

大正時代に入ると、差別に対する組織的な抵抗運動が本格化し、1922年には「全国水平社」が結成された。彼らは「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と謳い、自らの尊厳を勝ち取るための運動を展開した。第二次世界大戦後、日本国憲法の下で法の下の平等が保障され、1969年には「同和対策事業特別措置法」が施行された。これにより、住環境の整備やインフラの改善、教育・福祉の充実が図られ、物質的な格差は大きく解消された。しかし、心理的な差別や結婚・就職における身分調査といった問題は依然として根強く残っており、インターネット上での誹謗中傷など、新たな形の差別も表面化している。えた(穢多)という歴史的概念を正しく理解し、過去の制度がどのように現代の偏見に繋がっているかを検証し続けることは、現代社会における人権問題を解決する上で不可欠な課題である。

時代 主な特徴 法的地位
平安・鎌倉時代 職能集団「餌取」としての自律性 慣習的な職能層
室町・戦国時代 寺社の管理下、清掃・刑罰に従事 特権的な職能集団
江戸時代 居住地・婚姻・衣服の厳格な制限 士農工商外の最下層
明治時代初期 解放令(1871年)の布告 平民(新平民)
現代 同和対策事業による環境改善 日本国民(平等)