女大学|江戸時代の女子教育の指針書

女大学

女大学(おんなだいがく)は、江戸時代中期以降に広く普及した女子向けの道徳教科書であり、女性が社会や家庭で守るべき規範や心得を平易に説いた教訓書である。一般的には著名な儒学者である貝原益軒の著作とされてきたが、現代の研究では、益軒の著書『和俗童子訓』の第五巻「女子教」を土台として、後世の編者が要約・改編し、宝永年間(1710年頃)に別のタイトルで出版されたものと見なされている。封建社会における女性の地位を定義し、儒教的道徳に基づいた従順さや忍耐を美徳とする教えを説いた本書は、武家階級のみならず、寺子屋教育を通じて庶民層の女子にも多大な影響を与えた。近世日本の女性観や家族観を形成した歴史的に重要な文献であり、日本史における女子教育の象徴的存在として位置付けられている。

成立の背景と著者の謎

女大学という名称は、儒教の経典の一つである『大学』に倣い、女性にとっての「大きな学び」であることを示唆している。本書の成立には諸説あるが、最も有力な説は、貝原益軒が著した『和俗童子訓』の女子教育に関する記述を、出版業者が大衆向けに編纂し直したというものである。益軒本人の思想を反映しつつも、より厳しい戒律や簡潔な表現が用いられており、当時の家父長的秩序を強化する目的で広く流通した。元禄文化から化政文化へと至る出版文化の隆盛に伴い、挿絵を多用した豪華な「女重宝記」などの類書も出版されたが、その中でも女大学は決定版としての地位を確立し、女子が嫁ぐ際の嫁入り道具の一つとして定着するに至った。これにより、特定の著者の思想を超えた社会全体の教範としての性格を強めていくこととなった。

「三従の教え」と女性の徳目

女大学の思想的基盤は、厳格な朱子学的倫理観に置かれている。その核心となるのが「三従(さんじゅう)の教え」であり、女性は幼少期には父に従い、嫁いでは夫に従い、老いては子に従うべきであるとする従属的な立場を強調している。本文中では、女性には「五つの病(暗、多怒、多言、多恨、智慧浅い)」があるとされ、それらを克服するために謙虚さと慎み深さが求められた。特に「夫を天の如く敬うべし」という記述は、夫婦関係における絶対的な上下関係を説くものであった。これらの教えは、個人の自由よりも家名の維持や社会秩序を優先する当時の倫理体系を反映しており、女性の情動を抑制し、家を支える「内助の功」を理想像として提示したのである。

七去の法と離縁の条件

本書には、夫の側から一方的に離縁できる条件として、古代中国の法制に由来する「七去(しちきょ)」の教えが記されている。これらは女性にとって非常に厳しい制約であり、日常生活のあらゆる局面で夫や舅姑に尽くすことが求められた。具体的な七つの理由は以下の通りである。

  • 舅姑(夫の両親)に従わないこと。
  • 子が授からないこと(ただし、養子を迎えればよいとされた)。
  • 淫らな行いをすること。
  • 嫉妬深く、夫に反抗すること。
  • 悪病(重い感染症など)を患うこと。
  • おしゃべりが過ぎて、親族の和を乱すこと。
  • 盗み癖があること。

これらの項目は、女大学が単なる道徳書に留まらず、家の存続を第一とする封建社会の法的・社会的抑止力として機能していたことを示している。当時の女性にとって、離縁されることは社会的信用を失うことを意味したため、これらの項目を犯さないよう、常に自己を律することが求められたのである。

日常生活と家事・節約の心得

女大学は精神論だけでなく、極めて具体的な日常生活の指針も提供していた。早起き、掃除、洗濯、料理、裁縫といった家事全般に精通することを推奨し、無駄遣いを戒める「倹約」の精神を説いている。衣服についても、分相応であることを求め、贅沢を慎み、清潔さを保つことが女性の品位であるとされた。また、近所付き合いや親族との関係においても、謙虚に振る舞い、他人の悪口を言わないことが幸福を招く秘訣として記されている。これらの教えは、高度な教育を受けられない層にとっても、生活の知恵として受け入れられやすかった。結果として、女大学は単なる道徳の枠を超え、家政学やマナー集としての側面を併せ持つようになり、日本的な「主婦」の原型の形成に寄与したと考えられる。

近代における批判と福沢諭吉の視点

明治時代に入り、西洋の近代思想が流入すると、女大学が説く女性像は「旧時代の弊害」として激しい批判の対象となった。特に啓蒙思想家の福沢諭吉は、著書『女大学小論』や『新女大学』において、本書が説く女性の従属を「人権を無視した奴隷的教育」であると断じた。福沢は、男女が対等な権利を持つべきであるとし、女性も自立した個人として教育を受ける必要性を主張した。しかし、新時代においても女大学の影響は根強く残り、明治政府が推進した「良妻賢母」教育の根底には、形を変えた女大学的精神が一部引き継がれた。近代化の過程でその形式は批判されたものの、家庭内での女性の役割を重視する価値観そのものは、長く日本社会の深層に残り続けることとなった。

社会的影響と寺子屋教育

江戸時代の識字率の向上に伴い、女大学は多くの女子用往来物(教科書)の手本となった。寺子屋では、女子が文字を習う際の例文として本書の文章が用いられ、手習いを通じて自然にその道徳観が刷り込まれていった。また、木版印刷の普及により安価な版本が大量に出回ったことで、地方の農村部や商家に至るまで広く浸透した。以下の表は、当時の女子教育において重要視された要素をまとめたものである。

教育の区分 主な学習内容 目的
道徳教育 女大学、三従、七去 家の秩序維持、従順な態度の育成
実務教育 裁縫、機織り、料理 家事労働の担い手としての自立
教養教育 和歌、習字、琴・三味線 良家の子女としてのたしなみ

現代から見た評価

現代の視点から見れば、女大学の教えは極めて男尊女卑的であり、人権を損なう記述も少なくない。しかし、当時の社会情勢を背景に考えれば、法的な保護が十分でなかった女性に対し、どのように振る舞えば家の中で安泰に暮らせるかという「処世術」としての側面もあった。単なる抑圧の道具としてだけでなく、混乱した戦国時代を経て安定した江戸社会を維持するための家庭教育の基盤として機能した点は否定できない。歴史資料としての女大学は、当時の日本人が抱いていた家族の理想や、社会的安定を維持するための思想的苦心の跡を今に伝えている。