『エソポのハブラス』|天草版に刻まれた室町口語の寓話集

エソポのハブラス

エソポのハブラス(Esopo no Haburasu)は、1593年(文禄2年)に天草のイエズス会学林(コレジオ)で刊行されたイソップ寓話の翻訳書である。正式名称を『エソポのハブラスならびにそのハブラスの解釈、付録として口語体・文語体対照の金句集』といい、いわゆるキリシタン版を代表する文学作品の一つとして知られる。西洋の文学が初めて日本語に翻訳された記念碑的な著作であり、当時の口語体に近い日本語をローマ字で表記しているため、国語学および国文学の研究において極めて高い資料的価値を有している。

成立の背景と出版の目的

エソポのハブラスが刊行された安土桃山時代、日本で布教活動を行っていた宣教師たちは、日本人の思想や言語を深く理解する必要に迫られていた。当時の宣教師たちは、キリスト教の教義を広めるだけでなく、日本独自の文化や価値観に即した教育を行うため、世界的に広く読まれていたイソップ寓話に着目したのである。本書は、宣教師たちが日本語を習得するための語学テキストとして、また日本人信徒が道徳を学ぶための教化書として編纂された。印刷には、イタリアから持ち込まれた西洋式の活版印刷機が使用されており、天草という地が当時の東西文化交流の最前線であったことを物語っている。

構成と内容の特色

本書は、全3部構成で成り立っている。第1部にはイソップの生涯を描いた「エソポの伝記」が収められ、第2部には70編におよぶ「寓話(ハブラス)」が収録されている。第3部には「金句集」として、有名な格言や教訓が口語と文語の対照形式で記されている。収録されている寓話には、現代でも馴染み深い「犬と肉(欲深き犬)」や「獅子と鼠」などが含まれているが、物語の結末にはキリスト教的な倫理観に基づいた解説が加えられているのが特徴である。また、日本人の理解を助けるために、西洋的な表現が当時の日本社会に即した比喩や語彙に置き換えられるといった「和土化(インカルチュレーション)」の工夫が随所に見られる。

言語学的価値と表記体系

エソポのハブラスの最大の言語学的特徴は、全編がポルトガル式ローマ字で綴られている点にある。当時の日本語は、中世から近世へと移行する過渡期にあり、話し言葉(口語)が大きく変化していた時期であった。従来の漢字かな交じり文では正確に再現しきれない当時のリアルな発音やアクセントが、ローマ字表記によって克明に記録されている。例えば、ハ行の子音が「f」の音で発音されていたことや、ウ音便の変化過程などが本書を通じて確認できる。このように、生きた口語体の記録としての側面を持つため、本書は当時の日本語音韻研究や文法研究において欠かせない一級の史料となっている。

現存する写本と研究史

エソポのハブラスは、江戸幕府による禁教政策の影響もあり、国内ではその多くが失われた。現在、完全な形で保存されている原本は、イギリスのロンドンにある大英図書館が所蔵する1冊のみとされている。この貴重な「大英図書館蔵本」は、19世紀末にイギリスの外交官アーネスト・サトウによって発見され、その存在が世界的に知られることとなった。明治時代以降、新村出をはじめとする多くの学者によって詳細な校注や分析が行われ、西洋文学受容の先駆けとしての位置づけが確立された。今日では、ファクシミリ版(影印本)や活字翻刻本を通じて、広く研究や教育の場で活用されている。

掲載されている主な寓話の例

寓話名(現代呼称) 内容の要約 教訓の方向性
犬と肉 橋の上で肉をくわえた犬が、水面に映る自分の姿を他者と思い、その肉を奪おうとして自分の分も失う。 強欲は身を滅ぼし、現状に満足することの大切さを説く。
獅子と鼠 ライオンに助けられた小さなネズミが、後に罠にかかったライオンの網を噛み切って恩返しをする。 小さき者の力も侮ってはならず、慈悲は報われることを示す。
蟻と蝉 夏に働いたアリが、冬に食料を求めてきたセミに対し、遊んでいた報いであると告げる。 勤勉の重要性と、将来への備えの大切さを教える。

キリシタン版としての意義

エソポのハブラスが属するキリシタン版は、宗教書のみならず、辞書(日葡辞書)や文学書を含む広範なジャンルを網羅していた。これは、イエズス会が日本の知識層に対して、高度な文化的背景を持って接しようとした戦略の表れでもある。本書に収められた寓話は、単なる子供向けの物語ではなく、人間の本質や社会の矛盾を突く高度な知恵の結晶として扱われた。キリシタン禁制によってその直接的な系譜は途絶えたものの、物語の一部は「伊曽保物語」として仮名草子などの形で江戸時代以降の日本文学に受け継がれ、日本の歴史における西洋文化受容の伏流となったのである。

印刷技術と造本

エソポのハブラスの出版に用いられた活字は、当初ゴア(インド)から運ばれたものや、日本で鋳造されたものが混在していたとされる。紙質や製本技術においても、西洋の堅牢な製本術と日本の和紙が融合した独特の形態を有していた。一見すると西洋の書籍のように見えるが、中身は紛れもなく日本人のための教養書であるという二面性は、当時のキリシタン文化の象徴と言える。活版印刷という当時の最先端技術を駆使して、あえて「口語」を記録したという事実は、情報をいかに正確かつ広範囲に伝えるかというメディア論的な視点からも非常に興味深い試みであったと評されている。