『うたかたの記』|独逸三部作、ミュンヘンで描く悲劇

うたかたの記

うたかたの記』は、明治23年(1890年)に発表された森鴎外の短編小説である。鴎外のドイツ滞在体験を基にした「ドイツ三部作」の一つであり、『舞姫』、『文づかひ』と共に、日本近代文学の黎明期を飾る傑作として知られる。南ドイツのミュンヘンを舞台に、日本人画家の巨勢と、謎めいた美少女エリスとの刹那的で悲劇的な恋、そして歴史的な王の死が交錯する物語である。洗練された雅文体で綴られた本作は、当時の日本文学界において、内面的な感情の吐露と象徴的な美学を提示した重要な作品として位置づけられている。

執筆の背景と「ドイツ三部作」

うたかたの記』は、明治23年8月に雑誌『しがらみ草紙』に掲載された。鴎外は医学修得のために4年間に及ぶドイツ留学を経験しており、その帰国後に発表された一連の作品は「ドイツ三部作」と呼ばれている。三部作の中で最も早く発表された『舞姫』が、個人の自我と社会制度の葛藤を写実的に描いたのに対し、本作はより幻想的でロマンチックな色彩が強いのが特徴である。当時の言説空間において、鴎外は坪内逍遥らが提唱した写実主義とは異なる、理想を追求する文学的立場を鮮明にした。

物語のあらすじ

物語は、ドイツのミュンヘンで絵画の修行に励む日本人留学生・巨勢(こせ)が、美しい花売り娘・エリスと出会うところから始まる。エリスは、巨勢が以前見かけた狂王ルートヴィヒ2世に随伴していた謎の少女であった。二人は次第に心を通わせていくが、エリスにはかつて王の寵愛を受けた画家の娘という複雑な出自があった。ある日、王がシュタルンベルク湖で溺死するという事件が発生し、その衝撃的なニュースがエリスの精神を狂わせていく。巨勢が見守る中、エリスは狂乱の末に湖に身を投げ、物語は「うたかた(泡)」のように儚く消え去る命の悲劇を以て幕を閉じる。この結末は、歴史的事実と虚構が巧みに織り交ざった構成となっている。

文体と美的特徴

本作の最大の特徴は、和漢混交の流麗な雅文体(擬古文)にある。鴎外は、中世の物語文学の文体を取り入れつつ、西洋的な感性や情景描写を融合させることで、独自の美学を構築した。特にミュンヘンの街並みや、シュタルンベルク湖の霧深い情景、さらにはエリスの繊細な美貌を描写する筆致は、視覚的な美しさに溢れている。このような耽美的な表現は、後に発展する日本のロマン主義文学の先駆けとなった。読者は文字の連なりから、西洋の異国情緒と東洋の古典的美意識が調和した、静謐かつ情熱的な世界観を享受することができる。

『舞姫』との対比と変奏

うたかたの記』を語る上で、先行する『舞姫』との共通点と相違点は欠かせない要素である。両作とも、ドイツを舞台に日本人留学生と現地の女性「エリス」との恋を描いているが、その性格は大きく異なる。『舞姫』のエリスが、貧困や家族関係といった現実に翻弄される一人の女性として描かれているのに対し、本作のエリスはどこかこの世ならぬ妖精のような神秘性を纏っている。また、主人公の巨勢も、官僚としての出世と愛の間で苦悩する太田豊太郎とは異なり、芸術家としての直感と観察を主軸に置く人物として造形されている。これにより、『うたかたの記』は社会的な葛藤よりも、美の極致とその崩壊という形而上学的なテーマが際立つ結果となっている。

文学史における位置づけ

日本の近代文学において、本作は初期のロマン主義を象徴する作品として極めて高い価値を有している。鴎外が自らの滞欧体験を単なる記録に留めず、歴史的事件(ルートヴィヒ2世の死)をモチーフに借用して芸術的に昇華させた点は、近代小説としての手法の確立を物語っている。また、この作品を通じて提示された「雅文による西洋描写」という試みは、後の夏目漱石や泉鏡花らにも影響を与えた。森鴎外という文豪が、医学者という理知的な側面を持ちながらも、いかに深い叙情性と美への憧憬を抱いていたかを示す、彼の文学的キャリアにおける不可欠な一篇である。

  • 発表年:1890年(明治23年)
  • 掲載誌:『しがらみ草紙』
  • 主な登場人物:巨勢(画家)、エリス(薄幸の少女)、ルートヴィヒ2世(バイエルン国王)
  • 舞台:ドイツ・ミュンヘン、シュタルンベルク湖
作品名 発表順 文体 主なテーマ
舞姫 第1作 雅文体 自我と封建的社会の衝突
うたかたの記 第2作 雅文体 芸術的感興と幻想的な悲劇
文づかひ 第3作 雅文体 貴族社会の閉鎖性と女性の自立