「いろは」47組|江戸の町を守った町火消の組織と変遷

「いろは」47組

「いろは」47組は、江戸時代中期の享保年間、徳川幕府の第8代将軍である徳川吉宗が進めた享保の改革の一環として、町奉行の大岡忠相の主導により組織された町人による消防組織である。当時、過密化した都市構造により火災が頻発していた江戸において、従来の定火消や大名火消といった武家火消だけでは守りきれない町人地を自衛するために創設された。この組織は、隅田川から西の地域をいろは47文字になぞらえた47の組に再編したことに由来し、後に本所・深川地区の16組を加えて合計63組にまで拡大した。彼らの活動は単なる消火作業に留まらず、江戸っ子の心意気を象徴する文化遺産として、現代の日本の消防制度や祭りにも多大な影響を与え続けている。

組織の成立背景と大岡忠相の功績

江戸の町は、1657年の明暦の大火以降も度重なる大火に見舞われ、そのたびに壊滅的な被害を受けていた。これに対し、幕府は武士主導の防火体制を強化したが、広大な町人地をカバーするには限界があった。そこで町奉行の大岡忠相は、各町内が独自に雇っていた店火消(たなびけし)を整理統合し、1718年(享保3年)に公的な権限を持つ**「いろは」47組**を誕生させた。この改革の画期的な点は、消火活動の責任を町人自らに持たせることで、当事者意識を高めるとともに、大規模な連携を可能にしたことにある。忠相は火消の装備や給与体系を整備し、彼らが誇りを持って活動できる環境を整えたことで、江戸の防災力は飛躍的に向上した。

「いろは」の名称と組の編成

**「いろは」47組**は、その名の通り「いろ・は・に・ほ・へ・と」の47文字を各組の名称に冠していた。しかし、語呂や縁起を重んじる江戸っ子の気質から、いくつかの文字は別の漢字に置き換えられていた。具体的には、「へ」は「屁」に通じるため「百」、「ら」は「等」を嫌って「千」、「ひ」は「火」そのものであるため忌んで「万」、「ん」は終わりの文字であるため「本」という文字が代用された。各組は、組頭を最高責任者とし、その下に副組頭、梯子持、平人(ひらにん)といった厳格な階級組織を持っていた。一組あたりの人数は数十名から多いところでは数百名に達し、合計すると数千人規模の巨大な民間防衛組織が形成されていたのである。

町火消の消火戦術と鳶職の役割

当時の江戸における消火活動の基本は、現代のような放水による消火ではなく、火元周辺の建物を壊して延焼を食い止める「破壊消火」が主流であった。この過酷な任務を遂行するために、**「いろは」47組**の主力メンバーとして選ばれたのが、建築現場で高所作業に慣れていた鳶職人たちであった。彼らは火事の現場に駆けつけると、鳶口(とびぐち)と呼ばれる道具を駆使して迅速に家屋を解体し、火の道を遮断した。燃え盛る炎の中で建物を壊し、屋根の上で活動する彼らの姿は、まさに命懸けの作業であり、その勇猛果敢な働きは江戸庶民から「江戸の華」と称えられ、絶大な信頼を勝ち得ることとなった。

シンボルとしての纏と隊士の装備

**「いろは」47組**の各組には、その象徴である(まとい)が存在した。纏は各組固有の意匠が凝らされており、消火現場において自組の担当区域を示す目印として、また隊士の士気を鼓舞するための旗印として重要な役割を果たした。纏持ちは組の中で最も腕力が強く、かつ度胸のある者が選ばれ、炎が迫る屋根の上に立ち、一歩も引かずに纏を振り続けることが求められた。隊士たちの服装は、厚手の刺子(さしこ)で作られた半纏(はんてん)に水をたっぷり含ませ、頭には頭巾を被るという重装備であった。この刺子半纏には組の名称や紋が染め抜かれており、消火活動中の身元確認だけでなく、江戸の男たちの美学を表現するファッションとしての側面も持ち合わせていた。

地域社会における町火消の地位

**「いろは」47組**は単なる消火組織ではなく、地域社会の治安維持やコミュニティの結束を象徴する存在でもあった。彼らの活動資金は、各町内の住民が負担する「火消人足賃」によって賄われており、まさに町全体で火消を支える構造となっていた。このため、町火消は地域住民から敬愛される存在となり、祭礼や祝い事の際には中心的な役割を担うことが多かった。彼らが歌う「木遣り歌」は、集団作業のリズムを合わせるための労働歌から発展し、やがて祝儀の席に欠かせない伝統芸能として定着した。このように、**「いろは」47組**は江戸の生活文化と密接に結びつき、町人たちのアイデンティティの一部となっていたのである。

火事場の競り合いと現場の混乱

血気盛んな若者が集まる**「いろは」47組**の現場では、しばしば「組同士の競り合い」が発生した。これは、どの組が先に現場に到着し、最も危険な場所で纏を立てるかを競うもので、時には消火そっちのけで組同士の喧嘩に発展することもあった。幕府はこうした混乱を防ぐために厳格な規則を設けたが、一番乗りを名誉とする彼らの気性を完全に抑えることは難しかった。しかし、こうした激しい競争意識こそが、迅速な出動と命を顧みない消火活動の原動力となっていたことも事実である。現場での功績は、そのまま組の評判と地域からの信頼に直結していたため、彼らは常に命を賭して一番乗りを目指したのである。

近代消防への移行と伝統の継承

時代区分 組織の名称 主な特徴と役割
江戸時代 **「いろは」47組** 大岡忠相により整備。鳶職人中心の破壊消火を行う町人組織。
明治時代 消防組 警視庁や市町村の管轄に移行。蒸気ポンプ等の導入により機械化が進む。
昭和以降 消防団 各自治体の非常備消防組織として、地域密着型の防災活動を継続。

江戸の精神を象徴する歴史的遺産

明治維新以降、日本の消防体制は西洋式の技術や組織を導入することで近代化を遂げたが、**「いろは」47組**が築き上げた精神は途絶えることはなかった。現代の消防団や、新春恒例の「出初式」で見られる梯子乗り、さらには重要無形文化財に指定されている木遣り歌などは、すべて江戸の町火消たちが育んできた伝統の継承である。**「いろは」47組**の歴史は、官民が協力して都市を守るという「共助」の精神の原点であり、災害大国である日本において、地域住民が自らの手で街を守るという重要性を今に伝えている。彼らが守り抜いた江戸の街は、その勇敢な魂とともに、日本人の防災意識の根底に深く刻まれている。