騎士戦争
騎士戦争は、1522年から1523年にかけて、神聖ローマ帝国のライン地方を中心に起こった帝国騎士たちの武装蜂起である。主導したのはフランツ・フォン・ジッキンゲンをはじめとする帝国騎士団で、彼らは台頭する領邦君主や大司教に対抗し、自らの政治的・経済的地位の回復を目指した。背景には、中世的な騎士身分の没落と、領邦国家化が進むなかでの権力構造の変化、さらに宗教改革や人文主義思想の広がりがあった。結果としてこの戦争は失敗し、帝国騎士階級の衰退を決定づけ、神聖ローマ帝国における領邦君主の優位を明確にした出来事として位置づけられる。
神聖ローマ帝国と帝国騎士の背景
中世末から16世紀初頭の神聖ローマ帝国では、皇帝のもとに選帝侯、公爵、司教領主、都市など多様な勢力が並立していた。そのなかで帝国騎士は、皇帝に直属する小領主として、分散した領地と伝統的な軍事的名誉を拠り所としていた。しかし貨幣経済の発展と戦争様式の変化により、重装騎士の軍事的重要性は低下し、火器と傭兵を動員できる大領邦君主が優位に立つようになる。この過程で多くの帝国騎士は借金に苦しみ、周囲の領邦に領地を併合される危機に直面した。
フランツ・フォン・ジッキンゲンと人文主義の影響
騎士戦争の中心人物フランツ・フォン・ジッキンゲンは、ライン地方の有力騎士であり、傭兵隊長として名を上げた人物である。彼は人文主義者であり、同じく人文主義者で宗教改革支持者でもあったウルリヒ・フォン・フッテンと結びつき、皇帝に直属する騎士と都市が協力して領邦君主や聖界貴族を打倒すべきだと主張した。彼らは、マルティン・ルターの批判的教会観にも共感しつつ、騎士の軍事力をてこに帝国改革を進める構想を抱いていた点で、初期の宗教改革運動と政治的改革要求が交錯する存在であった。
戦争の発端とトリーア攻撃
1522年、ジッキンゲンは仲間の帝国騎士たちとともに、ライバルと目されたトリーア大司教を標的として挙兵した。彼らはトリーアを包囲し、大司教に対して都市の自由と教会改革を要求したが、都市住民の支持を十分に得られず、攻撃は失敗に終わる。さらに、トリーア大司教はプファルツ選帝侯やヘッセン方伯など有力諸侯の援軍を得て反撃に転じ、騎士側は一気に劣勢に追い込まれた。この時点で帝国騎士たちの運動は、広範な民衆や帝国都市を巻き込むことに失敗していたことが明らかになった。
要塞包囲とジッキンゲンの死
1523年、諸侯連合軍はジッキンゲンの居城ランツシュトゥール城を包囲し、近代的火砲による激しい攻撃を加えた。城は中世騎士の居城としては堅固であったが、大砲の前には脆弱であり、城壁は次々と破壊された。ジッキンゲンは砲撃のなかで重傷を負い、降伏後まもなく死亡した。彼の死と城の陥落によって、騎士戦争の中心は崩壊し、他の帝国騎士も次々と諸侯と和睦し、蜂起は終息へと向かった。
敗北の要因
- 帝国騎士という身分層が人口的にも経済的にも小さく、広い支持基盤を欠いていたこと
- 都市や農民の不満を十分に組織化できず、農民戦争のような大規模運動へ発展しなかったこと
- 火器と財政力に優れた領邦君主側との軍事力の格差
- 皇帝カール5世がイタリア政策や対フランス戦争で忙しく、帝国騎士の改革構想を積極的に支援しなかったこと
騎士戦争の結果と歴史的意義
騎士戦争の敗北は、帝国騎士階級の政治的自立をほぼ終わらせる契機となった。以後、神聖ローマ帝国では、カール5世のもとで選帝侯や大諸侯の発言力が強まり、領邦国家化が一層進展する。また、宗教改革運動においても、騎士や急進的な人文主義者ではなく、ザクセン選帝侯フリードリヒのような領邦君主がルター派保護の中心となっていく。ジッキンゲンとフッテンの試みは、ヴォルムス帝国議会やヴォルムス勅令前後の混沌の一局面として、またその後のヴァルトブルク城での聖書のドイツ語訳やドイツ農民戦争へとつながる、初期近代ドイツ社会の変動の前触れとして理解される。