選挙法改正(第4回)|普通選挙制確立への転機

選挙法改正(第4回)

選挙法改正(第4回)は、大正末から昭和初期にかけての日本において、納税資格を撤廃して成年男子にほぼ一律の選挙権を与えた画期的な衆議院議員選挙法の改正である。大正デモクラシーの高まり、都市労働者や農民の政治参加要求、護憲運動の経験などを背景に、1925年(大正14年)に加藤高明内閣のもとで成立し、1928年の最初の普通選挙から実施された。この改正により、有権者数は従来の数十万人規模から約1200万人へと飛躍的に増加し、日本の議会制民主主義の性格を大きく変化させた。

第1〜第3回選挙法改正の流れ

明治憲法下の衆議院議員選挙は、当初きわめて限定的な選挙権しか認めていなかった。初期の選挙法では、高額納税の男子にのみ選挙権が与えられ、有権者数は人口のごく一部にとどまった。その後、第1回・第2回・第3回の選挙法改正が順次行われ、納税額要件の引き下げや選挙区制の変更などが進んだが、依然として地主層や都市の裕福な市民が政治を独占する構造は崩れなかった。この時期、自由民権運動や護憲運動の経験は、より広い層への選挙権付与を求める理論的・運動的基盤となっていった。

背景:大正デモクラシーと普通選挙運動

第4回改正の背景には、第一次世界大戦後の社会変動と大正デモクラシーの進展がある。都市への人口集中、労働運動や農民運動の活発化、米騒動後の政党内閣の成立などを通じて、国民のあいだに政治参加への関心が高まった。また、原敬内閣以来の本格的な政党内閣のもとで、衆議院を基盤とする政党政治を安定させるには、選挙権の拡大によって政権の正統性を高める必要が意識されるようになった。戦後ヨーロッパ諸国で進んだ普通選挙化の動きも、日本の知識人や政治家に強い刺激を与えた。

加藤高明内閣と護憲三派

1924年に成立した加藤高明内閣は、憲政会・政友会・革新倶楽部から成る護憲三派内閣であり、政党内閣制の安定と普通選挙の実現を重要課題として掲げた。護憲三派は、藩閥勢力や枢密院中心の政治に対抗して、議会多数に基づく内閣を常態化させることを目指していた。そのためには、有権者基盤を拡大し、都市中間層や地方の小農層を政党支持層として取り込むことが不可欠であった。この政治的判断が、選挙法改正(第4回)を一挙に実現させる大きな推進力となった。

第4回選挙法改正の主な内容

第4回改正の中核は、直接国税納税額による選挙権資格を廃止し、満25歳以上の男子すべてに選挙権を与えた点にある。これにより、経済力に依存した選挙権制限は大きく後退し、身分や職業を問わない広範な国民が政治参加の権利を持つことになった。また、選挙区は中選挙区制を基本としつつ、投票手続きや選挙管理体制の整備も図られた。これらの変更によって、有権者数は約1200万人に達し、政党政治は名実ともに「大衆政党」段階へと移行していった。

制度面の特徴

  • 直接国税3円以上という納税資格の撤廃
  • 満25歳以上の男子への一般的選挙権付与
  • 中選挙区制を基本とする選挙区構成
  • 投票手続きや選挙管理の制度化・整備

治安維持法との同時制定

他方で、第4回選挙法改正と同じ1925年に、国家体制の根本を変革しようとする運動を弾圧する治安維持法が制定されたことは重要である。普通選挙化によって政治参加は拡大したものの、天皇制や私有財産制を否定する急進的な思想・運動は法的に厳しく制限されることになった。この両立は、日本の近代政治が、大衆的な選挙参加と同時に、体制維持のための強い統制装置を併せ持つという二重の性格をもって発展したことを示している。

第4回改正の意義と限界

帝国議会において普通選挙が実現したことは、日本の立憲政治史上大きな画期であった。これにより、農民や労働者、中小商工業者など、従来政治から疎外されていた層が選挙を通じて政党に影響力を与えることが可能になり、選挙運動も地方隅々にまで浸透した。しかし一方で、女性には依然として選挙権が与えられず、完全な意味での国民的代表制には至らなかった。また、金権選挙や地縁・血縁に依存した選挙慣行は根強く残り、日本国憲法施行後の新たな選挙制度へと継承される課題も多く残された。

その後の展開

1928年の第1回普通選挙は、政友会と憲政会(のちの民政党)を中心とする二大政党体制のもとで行われ、大衆政党政治が本格的に始動した。しかし、世界恐慌以後の経済危機や軍部の政治介入の強まりのなかで、政党内閣は次第に後退し、1930年代には軍部主導の体制が形成されていく。こうした流れのなかで、第4回選挙法改正によって切り開かれた普通選挙の意義は十分に活かされたとは言いがたいが、日本の近代政治における「国民代表」をめぐる試行錯誤の重要な一段階として位置づけられている。