軍人皇帝時代
軍人皇帝時代(235~284)とは、皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌス以降、ローマ帝国滅亡に向かう政治の時代であり、この頃から衰退の一途をたどった。3世紀半ばから各地の軍団がそれぞれ皇帝をたてて抗争する事態となった。軍事力偏重によって都市が圧迫をうけ、これに加えて東方ではササン朝ペルシアがローマ領に進出し、北方からはゲルマン民族が侵入するなど、ローマ帝国は揺れ動き、最後には東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂することになる。
3世紀の危機
ローマ帝国は混乱を極める中、東方では226年に建国したササン朝ペルシアが国境を脅かし、皇帝ヴァレリアヌス(位253~60)は捕虜とされる、という事態に陥る。北方からはゲルマン民族が侵入するなど、外国との戦争が相次いだ。ローマ帝国は、巨大な領土ゆえにその国境を守るため、また、新たな領土が得ることはできない戦火が続いたため、死者や軍事費が拡大していった。
属州
ローマ帝国の安定は属州の活性化を生んだ。属州の経済規模や交易が盛んになると、市民の間には、経済力に基づく格差が開いていく。元老院議員は世襲となる一方、属州の総督や将軍は、名誉的な高級官職に配置されるようになる。ガリア・ギリシア・アフリカなど属州出身の議員が現れるようになった。
騎士階級
騎士階級は商人として、そして帝政期にめだってきた皇帝に直接仕える官僚として上級身分を構成した。また各都市の富裕層は、都市の評議会員として特権身分と見なされるようになる。
セプティミウス=セヴェルス
セプティミウス=セヴェルス(位193~211)はアフリカ出身の軍人である。経済統制をおこない、軍事力を足がかりにローマ帝国を立て直した。当初は、ローマ帝国の伝統にしたがっていたが、ローマやイタリアとはことなる慣習や宗教に傾くようになった。
ササン朝ペルシア
東方でも226年に建国したササン朝ペルシアが国境を脅かし、皇帝ヴァレリアヌス(位253~60)は捕虜とされた。帝国は「3世紀の危機」を体験していた。
ディオクレティアヌス
ディオクレティアヌス(在位284~305)は、軍人皇帝時代の混乱を収拾させ、ドミナトゥスと呼ばれる専制政治を始めた。さらに首都をニコメディアに移し、四分統治という統治システムを作り、帝国を再編成した。また、キリスト教徒に対する迫害を行ったことで知られる。
コンスタンティヌス
コンスタンティヌス(在位306~337)は、度重なる混乱を収めて帝国を再統一した。305年のミラノ勅令でキリスト教を公認した。また、東方の発展に伴い、コンスタンティノープルへの遷都し、身分や職業の固定化、官僚制度の整備、ソリドゥス金貨などで知られる。
ゲルマン人の大移動
375年の西ゴート族の南下、翌年のドナウ川越境をきっかけとする、ゲルマン諸族の帝国領内への大移動。古代から中世への転換のきっかけとされる出来事。、378年のハドリアノポリスの戦いでは皇帝ヴァレンスが戦死した。
貧農の反乱
混乱時には、ガリア・スペインにはバガウダエと呼ぶ貧農の反乱が起こり、ローマ帝国を揺るがすことになる。
キルクムケリオーネスの騒乱
キルクムケリオーネスの騒乱とは、北アフリカでキリスト教の異端キルクムケリオーネスが起こしたローマ帝国への反乱である。
テオドシウス
テオドシウスは、392年にキリスト教を国教と定めた皇帝として知られる。ローマ帝国最後の統一を果たしたが、395年、死に際して帝国を東西に分け、これをうけ、東ローマ帝国と西ローマ帝国と分かれ、ローマ帝国は分裂した。