蘇我馬子 そがのうまこ
蘇我馬子は蘇我稲目の子である。大臣として敏達・用明・崇峻・推古の4代の大王(天皇)に仕えた。587年排物派の物部守屋を倒し、報恩のため法隆寺を建立。592年には崇峻天皇を暗殺して推古天皇を有率した。聖徳太子とともに「天皇記」や「国記」を編纂した。
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法隆寺
法隆寺は7世紀の初めに大和の斑鳩に聖徳太子・蘇我馬子が建立した寺院である。金堂・五重塔などの法隆寺式の伽藍配置の西院と、夢殿・伝法堂の東院に分かれる。
大和-難波間の官道の設備
613年11月、蘇我馬子の指揮のもと、官道建設を作成する難波津(なにわづ)と小墾田宮(おわりだ)のある飛鳥とを結ぶ官道(道路)が作られた。この道路は、難波宮から南下して丹比道に接続し、そこから東に向かい、大坂越を経て大和に入り、そのまま横大路を直進、大和を南北に平行して走る道(上ツ道、中ツ道、下ツ道)のうち中ツ道にぶつかった後、進路を南にとれば飛鳥に入る経路をとる。
従来、外国の使者を飛鳥に迎えるのに、船で大和川・初瀬川をさかのぼり、三輪山麓の海石榴市の街から上陸するという困難な経緯を辿らなければならず、幹線道路の整備は大和朝廷の安定成長のために従来な役割を果たしたと考えられる。
「天皇記」「国記」
蘇我馬子は聖徳太子とともによって歴史書「天皇記」(すめらみことのふみ)「国記」(くにつふみ)の編纂を行った。
国記には、大王(天皇)に仕えた氏族の祖先の系譜・伝承を記した内容を考慮し、「臣・連・伴造・国造・百八十併せて公民等の本記」というサブタイトルがつけられている。
「天皇記」、「国記」は、大王の始祖が住む高天原を示す「天(アメ)」と、その始祖が天降って支配者となった「国(クニ)」という世界観が命名の由来である。
歴代の大王の系譜を中心とする「天皇記」は、高天原の主宰者アマテラスの孫ニニギミコトの降臨に起筆し、初代大王とされるイワレコヒコ大王(神武天皇)の即位に言及し、中国の暦を用いてその即位年を確定する試みもなされている。聖徳太子の没後、643年の斑鳩宮の炎上とともに失われる。
新羅遠征軍
623年、大臣の蘇我馬子は、実力を行使しての加羅(任那)を新羅から引き離しをはかる主戦派を押さえきれず、同族の境部臣雄摩侶(さかいべのおみおまろ)と中臣連国(なかとみのむらじくに)を大将軍とする軍勢を、朝鮮半島に向け進発させた。
新羅遠征軍の経緯
蘇我馬子の下で、朝鮮半島に対する外交方針を協議する群臣会議において協議がもたれた。加羅からの貢納は、大和朝廷の朝鮮半島に対する大国的地位を保証するものである。席上、新羅による加羅領有の現状を認めたうえで新羅に貢納させようとする蘇我馬子同族の田中臣と、百済に加羅領有を認め、加羅からの貢納を百済に肩代わりさせるべきとする中臣連国の間で激論が交わされた。
蘇我馬子は是非の判断を下さず、新羅と加羅の実情視察に吉士磐金(きしのいわかね)と吉士倉下(くらじ)を派遣したが、蘇我馬子の意図に反し、磐金・倉下の2人が新羅・加羅に向かった直後に新羅遠征軍が出向する。両名が新羅・加羅から貢納させることで成立した和平交渉は、倭の大船の出現によって破綻することになる。
死去と後継者争い
蘇我馬子は飛鳥の邸宅で死亡した。一説によれば享年76歳と伝えられる。蘇我馬子の子の蝦夷が葬儀を仕切った。葬儀の主宰は族の長位を継承し、大臣位に就任することになるが、死後、蘇我馬子の後継者として蘇我馬子の子の蝦夷と蘇我馬子の弟の境部臣摩理勢の間でその後継を巡り争うこととなる。
石舞台古墳
奈良県明日香村にある石舞台古墳は蘇我馬子の墓と推定されている。方墳あるいは上円下方墳。封土は除かれ石室が露呈している。石室の規模は広く、2枚の大きな天井石がある。