藤原道長|平安時代に栄華を極めた藤原一族の長

藤原道長

藤原道長は、平安時代に活躍した政治家・公卿である。藤原兼家の五男でありながら摂政まで上り詰めた。長男、次男があいつで病死すると、注目が集まり、伊周の変では伊周を退け、左大臣となり政権を握った。三人の娘をすべて皇族に嫁がせ、一家三后を実現した。栄華を極めた藤原道長は晩年は病を倒れ、仏教に死後の救いを求めることとなる。法成寺で死去した。

目次

藤原道隆の略年

966年 藤原兼家の五男として誕生する
995年 内覧の宣旨を受け、藤原氏の氏長者となる
999年 長女の彰子を一条天皇の女御として入内させる
1008年 彰子が敦成親王(のちの後一条天皇)を産む
1017年 摂政と氏長者を子の頼通に譲る
1019年 病になり出家する
1027年 死去

藤原道隆の生誕

966年(康保3)、藤原兼家の五男として誕生した。本来だと出世は兄が第一の候補であったが、父である藤原兼家のあとを継いだ、長兄、関白の藤原道隆がお酒が原因で995年(長徳1)に死ぬと、関白となった四男の藤原道兼も伝染病によりわずか数日間務めただけで死んだ。2人の兄が死んだことで、藤原道長が藤原家として出世候補に注目が集まる。

藤原兼家

藤原道長の父である、藤原兼家は、娘が産んだ一条天皇の摂政となった、藤原家の実力者であった。

伊周との権力争い

前関白の弟である、当時30の藤原道長が次の関白の候補であったが、藤原道隆の長男の伊周との権力争いがはじまる。藤原道長にとっては、甥にあたり、22歳ながらすでに内大臣を務めた。また、一条天皇の中宮の藤原定子は、伊周の妹で伊周が有利に事を運んだ。

東三条院詮子

決めかねた一条天皇に対し、一条天皇の母で、藤原道長の姉にあたる東三条院詮子(ひがしさんじょういんせんし)、は藤原道長を強く推挙した。最終的には、東三条院詮子の推挙が決め手となり、藤原道長を内覧とする宣旨(せんじ)を下すことになる。藤原道長は伊周に競り勝つかたちで、朝廷の首座を占めることになった。995年、関白に準ずる地位の内覧につき、また、藤原氏の代表者である氏長者に任命され、権力者となった。

内覧

内覧とは、天皇にいろいろなことを申し上げ、また天皇が出す書類を前もって見る役で、摂政・関白に準じる。

長徳の変

無事、内覧についたものの、内大臣の伊周側の反発は必至で、厳しい衝突が起こることはあきらかであったが、伊周と弟の隆家が、誤って花山法皇に矢を射かけるという事件を引き起こした。これに加えて、伊周が東三条院詮子を呪い殺そうとした疑いもち上がる。これを長徳の変という。
結果、伊周は九州の大宰府に流され、「中の関白家」と呼ばれた伊周一族の勢いは急速に衰退した。以降、藤原道長と対立する勢力はなく、権力の集中する一途をたどるようになる。

一家三后

藤原道長は長徳の変以降、左大臣に進むことになり、あわせて内覧を務めた。藤原道長は自分の娘を天皇に入内させることによって権力をえた。12歳になったばかりの長女の彰子を一条天皇に入内させると、9年後、敦成親王を産み、やがて親王が後条天皇として即位、外祖父の道長は摂政となる。
藤原道長は、次女の妍子(ケンシ)を三条天皇に入内させ、中宮となった。妍子には親王が産まれなかった。三女の威子(いし)を彰子の子である後一条天皇の中宮になる。これで藤原道長の娘3人ともが后となった。
このとき、威子が中宮、妍子が皇太后(先代天皇の皇后)、彰子が太皇太后(先々代天皇の皇后)という「一家三后」を実現する。

この世をば

1018年(寛仁2)、藤原道長の娘・威子が、後一条天皇(ごいちじょう)のもとに入内し、中宮となる儀式を終えた日、道長の御殿・土御門邸で祝宴が挙行されたが、このとき藤原道長は栄華を極めた。自らの栄華を満月になぞらえ、歌を詠んでいる。

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることのなしと思へば

晩年の藤原道長

1017年(寛仁1)、52歳の藤原道長は、病気のために摂政を長男の藤原頼通に譲ったものの、自らは太政大臣として実権を握った。莫大な財を残した藤原道長だったが、病床は悪化し、その救いを仏教に求めることとなる。浄土宗に深く帰依し、延暦寺の高層のの導きで54歳のとき出家する。これまで権力闘争において蹴り落とした者たちの悪霊を恐れたものだった。その後、10年近く仏教の世界に生き、1027年(万寿4)、62歳の生涯を終える。危篤状態に陥った藤原道長は病の床を法世寺の阿弥陀堂に移し、9体の阿弥陀如来の指に5色の糸を結びつけなくなったと言われている。

法成寺

法成寺は藤原道長によって建立され、晩年を過ごした。広い伽藍をもち、五大堂・金堂・講堂・阿弥陀堂などが立ち並ぶ大寺である。栄華を極めた藤原道長が死の間際まで極楽浄土を法成寺に求めた。

逸話

藤原道長の父・兼家が息子たちを前に藤原公任の優秀さを賛美し、「お前たちは公任の影も踏むこととができない」というと、その他の兄弟は沈黙したものの、沈黙藤原道長は「影など踏まず、顔を踏んでやる」と言ったという逸話が残されており、藤原道長の性格を表している。

『御堂関白日記』

藤原道長が全盛期につけた日記を『御堂関白日記』という。998年~1021年の期間を日記に記していた。関白につかなかった藤原道長の日記がなぜこのような名前になったかはわかっていない。