第三革命
第三革命とは、清朝を打倒した第一革命と、袁世凱打倒をめざした第二革命に続き、中華民国初期において臨時約法と共和政体の回復をめざして行われた革命運動を指す用語である。主として1917年に広東で成立した護法軍政府とその運動をさすことが多く、北京の軍閥政府に対抗して「憲法(臨時約法)を護る」ことを掲げた点に特徴がある。この運動は全国統一を実現するには至らなかったが、その後の国民党政権や国民革命へとつながる段階として理解されている。
第一革命・第二革命との関係
1911年の第一革命(辛亥革命)によって清朝は崩壊し、南京で中華民国臨時政府が樹立された。しかし、実権を握った北洋軍の勢力と妥協したことで、臨時大総統には袁世凱が就任し、革命派の理想は十分には実現しなかった。1913年に起こった第二革命は、袁世凱の権力集中に反対した南方の革命派が起こした武装蜂起であったが、短期間で鎮圧され、孫文らは国外に亡命した。第三革命は、こうした失敗を踏まえつつ、再び共和政と憲政体制を回復しようとした試みであり、連続した「三度目の革命」と位置づけられる。
背景―袁世凱死後の混乱と臨時約法
袁世凱は帝政復辟に失敗して1916年に死去したが、その後の北京政府は北洋軍の各派が権力を争う状態となり、全国的な統一政権とは言いがたかった。辛亥革命期に制定された臨時約法は、形式上は依然として中華民国の根本法であったが、北京政府の軍閥支配のもとでしばしば無視され、議会制度も形骸化した。このように、名目上は共和国でありながら実質は軍人が政治を左右する体制に対し、孫文を中心とする革命派は「約法を護る」ことを合言葉に再び行動を起こした。これが第三革命、すなわち護法運動の出発点である。
広東護法軍政府の成立
1917年、亡命から帰国した孫文は南方の軍閥勢力や旧革命派を糾合し、広東省広州に軍政府を樹立した。これは「護法軍政府」と称され、その名が示すように目的は臨時約法と共和政体制の擁護に置かれていた。孫文はここで大元帥に就任し、広州の軍政府を正統な中華民国政府と位置づけ、北京政府を僣称政権として批判した。広東側には、辛亥革命期からの旧来の革命勢力に加え、地方軍人や実業界の一部も参加し、運動の政治的基盤となった。こうした広東軍政府の性格は、のちに政党組織として再建される国民党の前段階とみなされることが多い。
運動の展開と限界
しかし、広東の護法軍政府は必ずしも一枚岩ではなく、軍人勢力と孫文ら革命派のあいだには路線や利害の違いがあった。護法軍の指揮権や財政の運営をめぐって対立が深まり、内部抗争が頻発したため、北京政府に対抗するだけの全国的な軍事力と統一的指導力を確立するには至らなかった。また、各地の軍閥も独自の勢力維持を優先し、広東・北京のいずれか一方に全面的に従う姿勢をとらなかったことから、国内の分裂状態は解消されなかった。このような事情により、第三革命は短期的には失敗に終わり、護法軍政府はしだいに求心力を失っていった。
第三革命の歴史的意義
第三革命は、軍事的・政治的成果という点では限定的であったものの、共和政体と臨時約法の正統性を再確認し、それを掲げる勢力が南方に存続した点に意義がある。広東での経験を通じて、孫文は軍事力と政党組織を結合させた新たな革命運動の必要性を痛感し、その後ソ連や共産党との連携を通じて国民党を再編成する方向へと進んだ。こうして形成された国民党政権が北伐を通じて中国統一をめざす流れは、辛亥革命以来の共和革命の延長線上にあり、その重要な一段階として第三革命が位置づけられている。
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