第一革命|中国近代化の始まり

第一革命

中国近代史でいう第一革命とは、清朝を打倒して中華民国を樹立した辛亥革命を、中国ブルジョワ民主主義革命の最初の段階として位置づけた用語である。列強の侵略と清朝の腐敗に対する危機感の中で、孫文ら革命派が全国的な運動を組織し、1911年の武昌起義を契機として各省が次々と独立を宣言し、アジアで初めての共和国が誕生した。この革命は専制君主制を倒すという画期的成果を挙げたが、旧来の社会構造や軍閥勢力を一挙に清算するには至らず、その後の「第二革命」「第三革命」へと続く長期の革命過程の出発点とみなされる。

概説

第一革命は、清朝末期の1911年に湖北省武昌で発生した武昌起義から始まり、翌1912年の中華民国成立までを中心とする政治・社会変動を指す。形式的には、皇帝退位と共和政体の樹立という国家体制の転換を実現した点に特徴がある。孫文を臨時大総統とする南京臨時政府が成立したものの、実権はやがて北洋軍閥を率いる袁世凱に移り、立憲共和制は不安定な軍閥割拠体制へと移行した。それでも、皇帝制の廃止は後戻りしない歴史の転換点であり、のちの国民革命や共産革命を含む長期の中国革命史の第一段階として理解される。

清朝末期の危機と改革

第一革命の背景には、19世紀半ば以降のアヘン戦争や列強による半植民地化の進行があった。清朝は洋務運動や変法自強を通じて立て直しを図ったが、戊戌の政変で急進改革が挫折し、保守派と改革派の対立が深まった。義和団事件後の賠償金負担や列強の利権拡大は民衆の不満を高め、清朝は新政と呼ばれる立憲化と軍制改革に踏み出し、近代軍隊としての新軍や新建陸軍を整備した。また、近代的官僚制の構築をめざして科挙の廃止を断行したが、これらの改革は既得権を侵す一方で民衆の期待に応えきれず、かえって体制への不信と動揺を広げる結果となった。

革命結社と華僑の活動

清朝を打倒しようとする革命派は、19世紀末から海外と中国本土の双方で結社を組織した。ハワイや日本で結成された興中会、長沙や上海で成立した華興会や光復会などがその典型である。これら諸団体は、やがて日本に亡命していた孫文を中心として統合され、1905年に東京で中国同盟会が結成された。同盟会は「民族」「民権」「民生」の三民主義を掲げ、国内外の新聞・雑誌や宣伝活動を通じて清朝打倒を訴えた。また、東南アジアや北米の華僑社会は資金と人的支援を提供し、その役割は中国革命と華僑の重要なテーマとなっている。

武昌起義と辛亥革命の進展

1911年10月、湖北省の新軍の一部である革命派将兵が、武昌で蜂起して軍事的主導権を握った。この武昌起義を契機として、湖南・広東・陝西など各省の官僚や軍人も次々と独立を宣言し、清朝から離反した。南京では臨時議会が開かれ、孫文が臨時大総統に選出されて中華民国の成立が宣言されるに至る。こうした一連の動きが、のちに中国革命史の中で第一革命として総称される部分であり、皇帝溥儀の退位と清朝滅亡をもって一応の成功を収めたと評価される。

第一革命の意義と限界

第一革命は、長く続いた皇帝専制体制を打破し、共和政体と国民国家の理念を中国社会に定着させた点で画期的である。近代憲法の制定構想は憲法大綱などの形で示され、利権や関税自主権の回復を求める利権回収運動とも結びつきながら、民族独立と近代国家建設という目標を提示した。他方で、地主制・軍閥勢力・列強の支配構造は大きく残され、政権は袁世凱や各地軍閥の手に握られたままであった。このため、辛亥革命後も中国社会の矛盾は解決されず、国民党と共産党による後続の革命過程へと受け継がれていく。こうした意味で第一革命は、中国近代革命の「始まり」であると同時に、その未完性を象徴する歴史的段階であったといえる。

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