石井ランシング協定|日米が中国権益を確認

石井ランシング協定

石井ランシング協定は、第一次世界大戦中の1917年に、日本とアメリカ合衆国のあいだで結ばれた外交協定である。日本側の特命全権大使・石井菊次郎と、アメリカ国務長官ロバート・ランシングの名を冠し、中国における日本の「特殊権益」を認める一方で、列強が掲げてきた門戸開放と中国の領土保全原則をあらためて確認した。この協定は、日露戦争後に拡大した日本の大陸進出や二十一カ条の要求をめぐる対立の中で生まれ、太平洋地域における日米関係と中国問題の行方を左右する重要な転機となった。

成立の背景

第一次世界大戦期、日本は連合国側として参戦し、ドイツの租借地であった青島や山東半島、さらには南洋諸島など太平洋のドイツ領を占領することで、勢力圏を急速に拡大した。同時に1915年の二十一カ条の要求によって中国に対する権益拡張を図り、これが中国国内の反日感情と民族運動を刺激するとともに、アメリカをはじめとする列強の警戒を呼び起こした。アメリカは伝統的に門戸開放政策と中国の領土保全を唱えており、日本の行動が自国の通商上の利益と太平洋秩序を脅かすのではないかとの疑念を深めていた。

一方、日本にとっては、満州や山東における権益は、日露戦争後に獲得した生命線であり、対華政策の根幹であった。そのため、日本政府はアメリカとの対立激化を避けつつ、自らの権益の正当性を国際的に承認させる必要があった。このような状況のもとで、日米関係の改善と中国問題をめぐる相互理解を目的として、石井ランシング協定の交渉が開始された。

交渉の経過

1917年、日本政府は外務大臣も務めた外交官・石井菊次郎を特命全権大使としてワシントンに派遣した。石井は、アメリカ大統領ウィルソン政権および国務長官ランシングと協議を重ね、日本の安全保障上の要請と、アメリカが重視する門戸開放原則の調和を模索した。折しも大戦の帰趨が不透明ななかで、連合国の一員としての日本の協力を維持することはアメリカにとっても重要であり、両国とも対立より妥協を選ぶ動機を持っていた。

こうした交渉の結果、1917年11月に石井ランシング協定が公表され、表向きには日米関係の「全面的了解」が達成されたと宣伝された。しかし、協定文の文言は抽象的であり、解釈の幅が大きかったことから、のちにその評価をめぐって議論を呼ぶことになる。

協定の内容

石井ランシング協定の内容は、大きくいえば「中国における日本の特殊利益の承認」と「中国の領土保全・門戸開放原則の再確認」という二本柱から成り立っていた。

  • 第一に、アメリカは、中国の特定地域における日本の「特殊な利益」を認めると明記した。とくに満州や山東半島における日本の経済的・軍事的地位は、日露戦争後の条約や日本の第一次世界大戦への参戦を通じて既成事実化しており、それを追認する性格が強かった。

  • 第二に、両国は中国の主権と領土保全、ならびに門戸開放の原則をあらためて確認した。これは、列強が中国市場への平等な参入を維持するための基本線であり、日本の権益拡大が無制限な領土分割につながることを抑制しようとするアメリカ側の意図を反映していた。

  • さらに、協定には、公表されない書簡のかたちで、第三国が中国で新たな特権を得ようとする場合には、日米が協議するという趣旨の了解が含まれていたとされる。この秘密的側面は、後に国際政治上の不信を招く一因ともなった。

中国および列強の反応

石井ランシング協定は、表向きには中国の領土保全をうたっていたものの、実際には日本の「特殊権益」をアメリカが承認したと受け止められた。そのため、中国政府や世論は強い警戒と反発を示し、列強が中国を舞台に密約的な取り決めを行っているとの不信感を強めた。こうした不満は、のちの山東問題や五四運動など、中国の民族運動の高まりとも結びついていく。

また、イギリスをはじめとする他の列強にとっても、この協定は太平洋・中国における日米の相互了解を示すものであり、自国の利害への影響が注目された。一方、中国の知識人層では、帝国主義列強による中国分割への危機感から、首都の北京大学などを拠点に反帝国主義思想が広まり、のちに李大釗らによるマルクス主義受容へとつながっていく。

その後の展開と評価

第一次世界大戦後、パリ講和会議とヴェルサイユ体制のもとで中国・太平洋問題が再編されるなか、石井ランシング協定は徐々にその意味を変えていく。とくに1921〜22年のワシントン会議で締結された九カ国条約は、中国に関する新たな国際ルールを定め、門戸開放と領土保全の原則を多国間で確認した。これにより、二国間の了解であった石井ランシング協定は時代遅れのものとなり、1923年には正式に廃棄されるに至った。

歴史的にみれば、石井ランシング協定は、短期的には日米対立の激化を避けるための妥協として機能したが、長期的には中国側の不信と反帝国主義運動を強める結果をもたらした。また、日本国内では、大戦景気と大正デモクラシーの進展の陰で、大陸権益の維持が国家目標として固定化し、のちの日中戦争・太平洋戦争への伏線ともなったと評価される。協定をめぐる展開は、帝国主義時代の国際政治が、列強の権益調整と被支配民族の抵抗とのせめぎあいのうえに成り立っていたことを示す典型例であり、同時代の日本の動きと民族運動や中国・アジアの民族運動を理解するうえでも重要な位置を占めている。

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