直隷派|清朝末期の政治勢力

直隷派

直隷派は、中華民国初期のいわゆる軍閥時代において、直隷省(のちの河北省)出身の軍人・官僚を中心に形成された軍閥勢力である。北洋軍の一部から分化し、直隷派は安徽派や奉天派と対立しながら北京政府の主導権をめぐって争った。とくに曹錕や呉佩孚が指導者として知られ、第一次世界大戦後から北伐直前にかけて北中国政治を左右した勢力として位置づけられる。

成立の背景

直隷派の起源は、清末に袁世凱が編成した北洋軍にさかのぼる。辛亥革命後、中華民国が成立すると、北洋軍を基盤とする政権が北京政府を握ったが、袁世凱の死(1916年)によって北洋勢力は分裂し、安徽派・直隷派・奉天派といった派閥抗争へと発展した。直隷省出身の軍人や、華北の地方官僚・地主層・実業家などが結びつき、袁世凱没後の権力再編の中から直隷派が次第に自立した勢力として台頭したのである。

主な指導者

直隷派にはいくつかの重要人物が存在し、その指導者が交替しながら勢力を維持した。

  • 馮国璋:袁世凱没後、北洋系の有力者として副総統・大総統を歴任し、直隷派の初期指導者とみなされる。
  • 曹錕:直隷省出身の軍人で、華北に強い影響力をもち、後に賄賂選挙によって大総統となった直隷派の中心人物である。
  • 呉佩孚:曹錕の部下として頭角を現し、「学者軍人」と称される軍事指導者で、直隷派軍事力の象徴的存在となった。
  • 孫傳芳:江浙方面を支配した軍閥で、形式上は別勢力でありながら、一定期間直隷派と連携して南方に勢力を広げた。

勢力基盤と政治的特徴

直隷派の勢力基盤は、直隷省(河北)を中心とする華北一帯と、河南・湖北などの内陸地域に及んだ。北京と天津を結ぶ鉄道沿線、港湾都市や商業都市を押さえることで財政基盤と軍事輸送の優位を確保した。また、商工業者や金融資本と結びつき、相対的に都市ブルジョワジーの支持を受けたとされる。政治面では、形式的には議会政治や憲法秩序の維持を掲げ、安徽派の強権的な軍事独裁に対抗する姿勢を示したが、実際には軍事力と買収を用いて議会を操作する軍閥政治にとどまった。

安徽派との対立

軍閥時代前期において直隷派の最大のライバルとなったのは、段祺瑞が率いる安徽派であった。安徽派は日本からの借款を背景に軍備拡張を進め、北京政府内で強大な権力を握った。これに対して直隷派は、地方有力者や他軍閥と連携しながら安徽派に対抗し、1920年の直皖戦争で安徽派を打倒することに成功する。この勝利によって直隷派は北京政府の主導権を掌握し、以後数年間にわたり中央政界を支配した。

奉天派との抗争

安徽派を打倒した後、直隷派は東北を支配する奉天派(張作霖)との対立に向かった。1922年の第一次直奉戦争では、呉佩孚率いる直隷派軍が奉天軍を破り、華北の優位を確保した。しかし、対立は解消されず、両派閥は列強との関係や国内政治方針をめぐって対立を深め、1924年には第二次直奉戦争へと再び突入する。この戦争では、馮玉祥の北京クーデターなど内部分裂が起こり、直隷派は奉天派に敗北して首都支配権を失った。

腐敗と内部矛盾

直隷派支配期の象徴的事件として、1923年の曹錕による賄賂選挙がある。曹錕は国会議員に巨額の金銭をばらまいて大総統の地位を得たとされ、国内外から強い批判を浴びた。この事件は直隷派政権の腐敗ぶりを象徴し、軍閥政治への不信を深める結果となった。また、軍事費の増大と徴税強化は農村社会に負担を与え、地方では治安悪化や土匪の横行を招いた。こうした内部矛盾が、のちに国民党による北伐を支持する世論の形成にもつながっていく。

北伐と直隷派の崩壊

1926年に開始された国民革命軍の北伐は、南方の広東国民政府が北方軍閥を打倒して中国統一をめざす軍事行動であった。北伐軍はまず湖南・湖北で直隷派勢力と激突し、呉佩孚軍に打撃を与えた。続いて江浙方面では孫傳芳の軍が敗退し、直隷派と連携した諸勢力は次第に後退していく。1927〜1928年にかけて北伐が華北に達すると、直隷派の残存勢力は瓦解し、その多くは国民政府に帰順するか、あるいは地方の小軍閥として生き残るにとどまった。

歴史的意義

直隷派は、袁世凱没後の北洋軍分裂から国民政府による統一に至るまでの過渡期を代表する軍閥勢力であった。形式的には議会政治や憲政を標榜し、ある程度の対外協調や財政再建の試みも行ったが、なお軍事力を基礎とする軍閥支配の枠を出ることはできなかった。その存在は、辛亥革命後もなお中央集権的な近代国家形成が難航し、地方軍事勢力と列強の利害が錯綜するなかで中国政治が不安定な曲折をたどったことを示している。直隷派の興亡をたどることは、軍閥時代の構造と、その克服をめざした北伐・国民統一の歴史的背景を理解するうえで重要である。