橋本龍太郎|第82代内閣総理大臣

橋本龍太郎

橋本龍太郎(1937.7.29. – 2006年7月1日)は、日本の政治家であり、第82代内閣総理大臣を務めた。東京都渋谷で生まれ、父親は厚生大臣を務めた橋本龍伍。橋本龍太郎は慶應義塾大学卒。1963年に父の急逝に伴い、衆議院議員選挙に出馬し、最年少の26歳で初当選を果たした。その後、自由民主党(自民党)のメンバーとして政治力を持ち、日本の政治に多大な影響を与えた。橋本内閣は、一次(1996.1~96.10)、二次96.10~98.7)ともに、行政改革北方領土問題などにとりくむが、沖縄基地問題や金融危機に苦しみ、1998年の参院選敗北の責任をとって総辞職する。

生い立ちと教育

橋本龍太郎は、1937年7月29日に東京都港区に生まれた。彼の父、橋本龍伍も厚生大臣を務めた政治家で大きな影響を受けている。慶應義塾大学法学部を卒業、その後、呉羽紡績に入社した。剣道を好んだ。

初期の政治キャリア

1963年、父の急逝に伴い、26歳の若さで橋本は衆議院議員に初当選し、政治家としてのキャリアをスタートさせた。自由民主党に所属し、竹下派の中心となって大きく活躍した。

政治キャリア

橋本龍太郎は父親が身体的に不自由だったこともあり、福祉厚生に力を注ぎ、1978年、大平内閣で厚生大臣として初入閣した。以降、運輸大臣、自民党幹事長、大蔵大臣、自民党政務調査会会長、通商産業大臣などを歴任し、評価を高めていった。特に、中曽根康弘内閣では、運輸大臣として旧国鉄の分割民営化を手掛けた。

三本の矢

選挙戦では女性人気が高く、強い支持を集めた。石原慎太郎、河野洋平と並んで「三本の矢」として全国の選挙戦を回った。

内閣総理大臣としての業績

1996年、橋本龍太郎は小泉純一郎との選挙戦に競り勝ち、第82代内閣総理大臣に就任した。村山富市内閣の後を受けて日本社会党、新党さきがけとの連立政権を成立させた。経済構造改革や行政改革が主要な政策課題となった。1996年10月の総選挙で自民党は大勝し、橋本は首相に再選され、第二次橋本内閣が発足した。彼の政権下での主要な課題は行政改革であり、特に中央省庁の再編と財政再建に力を注いだ。金融システムの安定化、規制緩和、財政赤字削減を目指した改革を推進した。特に、「橋本行革」と呼ばれる行政改革は、日本の官僚制度に大きな影響を与えた。

経済改革

橋本政権の経済改革は、日本経済の停滞を打破する目的で、金融ビッグバンと呼ばれる一連の金融改革を実施し、金融市場の自由化と競争の促進を図った。日本の金融システムは国際的な競争力を高めることが期待された。

住専の不良債権処理問題

住専の不良債権処理問題では6850憶円の公的資金を投入の方針を出したが、新進党などの野党が大きな反対を行い、委員会室を占拠するなどの抗議を行った。

金融不安

1997年11月、三洋証券が事実上倒産、北海道拓殖銀行も破産、当時、4大証券会社の1つだった山一証券など金融不安が広がる。2兆円規模の特別減税を打ち出すなどの対策が取られたが、経済不安は深刻化していく。

行政改革

行政改革では、1997年には中央省庁再編を発表し、2001年には省庁の数を22から13に削減することを決定した。政府の効率性が向上し、無駄な支出の削減が図られた。

外交政策

外交面では、アジア諸国との関係強化を目指した。彼は中国や韓国との首脳会談を重ね、経済協力や安全保障に関する協議を行った。また、アメリカとの同盟関係を重視し、日米関係の強化にも努めた。沖縄県普天間の返還の約束を取り付けるなど、沖縄問題の解決に取り組んだ。

1997年の第二次改造内閣

1997年9月に第二次改造内閣が発足した。しかし、1998年、経済不況が原因で参院選で自民党が惨敗、その責任を取って党総裁を辞任し、内閣も総辞職した。

引退

2000年には第二次森喜朗改造内閣で行政改革担当相や沖縄開発庁長官を務めた。また、橋本は小渕派(平成研究会)を引き継ぎ、橋本派の会長となった。しかし、2001年の自民党総裁選で小泉純一郎に敗北し、2004年には日本歯科医師連盟からの不正献金問題の責任を取って同派閥の会長を辞任した。2005年8月、橋本は総選挙に立候補せず、政界を引退することを表明した。

晩年

2006年、脳卒中を発症し、その後の健康状態が悪化した。同年7月1日、橋本龍太郎は68歳で逝去した。

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