日米修好通商条約
日米修好通商条約とは、安政2年(1855年)6月19日に神奈川沖ポーハタン号で調印された日本とアメリカの通商条約である。アメリカのハリスが来日し、初の日本総領事に赴任した。ペリーの和親条約を下地として通商条約を要求。イギリス・フランス軍の清への侵攻を背景に、ハリスは他国との問題が起こったときに仲介を行うことを引き換えに締結を迫った。幕府は難色を示したが、1858年に大老になった井伊直弼、幕臣の岩瀬忠震は、朝廷の反対を押し切る形で即座に締結を結ぶ。内容は関税自主権がなく、治外法権を認める不平等なものであった。
目次
全権大使担当
- 日本側:岩瀬忠震、岩上清直
- 米国側:ハリス
違勅許印
厳しい交渉の末、日米修好通商条約をまとめたが、天皇の勅許が得られず、調印が得られなかった。行く末が難航したため、岩瀬忠震は、ハリスに他の国の修好通商条約との仲介役を確約してもらい、それをもって井伊直弼に掛け合う。結果、違勅許印と呼ばれる天皇の勅許を得られないままの調印を断行した。
貿易の拡大:港の開港
下田、函館港の他、次の場所の開港を認めること。
神奈川 1859年7月4日 (のちに横浜)
長崎 1859年7月4日
新潟 1860年1月1日
兵庫 1863年1月1日 (実際には1868年1月1日、神戸)
神奈川港を開いた後、6ヶ月後で下田港は閉鎖すること。
自由貿易
江戸は1862年・大坂は1863年の開市(商取引を許すこと)した。1859年より横浜・長崎・箱館で貿易を開始する。
協定関税
関税に関する条項もあったが、日本の関税自主権は設けられなかった。
輸出税・・・5%
輸入税・・・平均20%
領事裁判権
領事裁判権とは、在留外国人の裁判は、その本国の領事が裁判を行う権利である。日米修好通商条約では、領事裁判権は認められなかった。従って、日本で犯罪が起こった場合、アメリカ人に優位な判決が行われるため、不平等なものであった。
横浜港
横浜港は1850年に開港した。幕府はできる限り、国内の民衆と外国との接触を避けるため、東海道に近い神奈川から小漁村の横浜に変更する。アメリカは当初は反対したものの横浜港が誕生した。幕末期貿易の約80%を占め巨大なものであった。
神戸港
江戸・大阪、兵庫・新潟の開市開港の延期交渉のため、1867年5月に兵庫開港勅許が出て、12月に開港した。兵庫高の東にある神戸村に居留地を設けたため、栄え、神戸港が公称ととなった
安政の五カ国
安政の五カ国と1858年に締結した5カ国の修好通商条約総称。日米修好通商条約をもとにオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の通商条約総称を結んだ。これを安政の五カ国条約という。