日本の第一次世界大戦への参戦
日本の第一次世界大戦への参戦は、1914年に始まった世界規模の戦争において、日本が連合国側に立って参戦し、東アジアと太平洋地域で勢力を拡大していく契機となった出来事である。日本は同盟国ドイツと戦うのではなく、イギリスとの同盟関係を根拠に、ドイツの拠点を攻撃し、その権益を自国の支配下に移すことを主な目的として行動した。この参戦は軍事的には限定的であったが、外交的・経済的には大きな成果をもたらし、戦後の国際秩序における日本の地位向上に結びついた。
開戦前の国際情勢と日英同盟
20世紀初頭、日本は日露戦争に勝利して列強の一角に加わったが、その地位はまだ不安定であった。ヨーロッパでは列強の対立が激化し、やがて第一次世界大戦へと発展していく。こうした中で、日本は1902年に締結された日英同盟を再確認し、イギリスとの協調を外交の柱としていた。日本政府は、同盟の義務を果たしつつ、極東における安全保障と勢力拡大を図る好機とみなしたのである。
参戦決定と宣戦布告の経過
1914年7月にヨーロッパで戦争が勃発すると、イギリスは日本に協力を打診した。日本政府は内閣と元老が協議し、戦争への関与が国益に資すると判断した。日本はドイツに対して、中国山東省の膠州湾租借地および東アジアからの艦隊撤退を求める最後通牒を発し、ドイツがこれに応じなかったため、1914年8月23日に宣戦布告を行った。参戦の目的は、ドイツの脅威排除と極東における権益拡大という、地理的に限定されたものであった。
青島攻囲戦と南洋諸島の占領
宣戦布告後、日本軍は山東半島の青島にあるドイツ拠点を攻撃した。陸海軍の協同作戦により要塞を包囲し、1914年11月には青島を陥落させた。さらに日本は、太平洋上のドイツ領であったミクロネシアの島々を占領し、戦争中に実効支配を確立した。これらは総称して南洋諸島と呼ばれ、後に日本の委任統治領となっていく。軍事行動そのものは短期間であったが、領土的獲得という形で大きな成果をもたらした点が重要である。
二十一か条要求と中国への圧力
日本は軍事的勝利を基盤として、中国に対する政治的・経済的影響力を強めようとした。その象徴が1915年に袁世凱政府に突きつけた二十一か条要求である。この要求は、山東におけるドイツ権益の継承だけでなく、南満州や内モンゴルでの権益拡大、中国政府への顧問派遣など、広範な特権を認めさせようとする内容であった。中国側は強い不満を抱きながらも、当時の国際状況の下で多くを受け入れざるをえず、そのことが後の反日感情の高まりにつながった。
中国社会と五・四運動への影響
日本の強圧的な政策は、中国の知識人や学生に深い反発を引き起こした。とくに、袁世凱やその後継政権が列強との不平等な交渉を続ける姿は、民族独立を求める世論から厳しく批判された。第一次世界大戦後、パリ講和会議で日本の山東権益継承が認められると、中国では反帝国主義・反日を掲げる五・四運動が勃発し、日本の行動は中国近代民族運動の重要な契機として記憶されることになった。
連合国支援と海軍の活動
日本の参戦は主として極東で展開されたが、その後は連合国全体を支援する役割も担った。日本海軍は地中海に艦隊を派遣し、連合国の輸送船団護衛に従事した。これにより、日本はヨーロッパ戦線の勝利にも一定の貢献を果たしたと主張できるようになり、戦後の国際会議に参加する資格を高めた。また、連合国向けの軍需物資や海上輸送の需要が拡大したことで、日本経済は好況を迎え、輸出主導の成長が進んだ。
戦後秩序への参加と日本の地位
戦争終結後、日本はパリ講和会議に参加し、ドイツから奪取した山東権益や南洋諸島の委任統治権を正式に認められた。こうして日本は、ベルサイユ条約体制の中で列強の一員としての地位を再確認したといえる。他方で、対中強硬策は周辺諸国との対立を深め、後の外交的孤立の伏線ともなった。日本の第一次世界大戦への参戦は、国際的地位の上昇とともに、東アジアにおける緊張と対立をも生み出したという二面性をもつ出来事であった。