日本の動きと民族運動
日本の動きと民族運動とは、第一次世界大戦前後から大戦間期にかけて、日本の対外進出や植民地支配が進むなかで、朝鮮や中国などアジア諸地域で高揚した民族独立・民族解放運動との相互関係を指す概念である。日本は列強の一員として勢力を拡大すると同時に、同じアジアの民衆からは帝国主義的抑圧の担い手としても認識され、その動きが各地の民族運動を刺激し、時に弾圧する役割を果たした。この視点から、日本の外交・軍事行動とアジア諸民族の自立運動を総合的に位置づけることができる。
第一次世界大戦と日本の台頭
日本は日英同盟を根拠として1914年に第一次世界大戦に参戦し、中国山東半島のドイツ権益や南洋群島を占領した。戦時特需によって工業生産や貿易が急増し、日本は「大戦景気」を背景に列強の一角として台頭した。他方で1915年の対華21か条要求は、中国の主権を強く制限する内容であり、中国側の反発と対日不信を深めた。このような強圧的外交は、のちの五四運動など反帝国主義的な民族運動の重要な要因となり、日本がアジアにおいてどのような存在として認識されたのかを決定づける契機となった。
中国に対する圧力と五四運動
1919年、パリ講和会議は山東のドイツ権益を中国に返還せず、日本に継承させる方針を示した。これに抗議して北京の学生たちが立ち上がったのが五四運動である。中心となった北京大学の知識人や学生は、対日外交の転換と帝国主義列強への抵抗を訴え、運動は労働者や商人へと波及した。指導者の一人である李大釗はマルクス主義を紹介し、のちの中国共産党結成に大きな影響を与えた。また魯迅をはじめとする作家たちは、雑誌新青年などを通じて旧来の価値観を批判し、新文化運動を推進した。日本の対華政策は、中国における民族運動と思想革新を促す「外圧」として作用したのであり、両者は密接に結びついていたといえる。
朝鮮の三・一運動と日本の植民地支配
朝鮮では1910年の併合以降、日本は土地調査事業や警察制度の整備を通じて支配を強化し、言論や集会を厳しく制限した。第一次世界大戦後、米大統領ウィルソンが民族自決を唱えると、この理念は朝鮮の知識人や宗教指導者にも影響を与えた。1919年3月1日、ソウルで独立宣言がおこなわれ、全国にデモが広がる三・一運動が発生した。日本当局は軍隊や憲兵を動員してこれを弾圧し、多くの死傷者と逮捕者を出したが、運動は朝鮮民族の独立意思を内外に示す重要な契機となった。日本はその後、「文化政治」と呼ばれる穏健な統治方針を掲げたものの、根本的な支配構造は変わらず、朝鮮民族運動は地下化・多様化しながら継続していった。
国内の大正デモクラシーと帝国秩序
一方、日本国内では米騒動や政党政治の進展を背景に、民本主義を掲げる大正デモクラシーの潮流が現れた。普通選挙運動の高まりの結果、1925年には普通選挙法(日本)が制定され、一定の制限は残るものの、成年男子に選挙権が付与された。同時に政府は社会主義や共産主義の取り締まりを目的として治安維持法を公布し、思想統制を強めた。また1924年に成立した加藤高明内閣は本格的な政党内閣(日本)とされ、議会政治の成熟が期待されたが、1923年の関東大震災以降、社会不安や治安対策の名の下に、帝国秩序を守るための権力強化も進行した。国内で民主化の動きが広がる一方、対外的には植民地支配を維持・拡大し続けたという二重性が、日本の特徴であった。
アジア諸地域の民族運動と日本との関係
日本はアジア唯一の近代的立憲国家として、多くのアジア人から近代化の成功例として注目された。とくに日露戦争の勝利は、インドや東南アジアの民族運動家に帝国主義列強への抵抗可能性を示した。しかし第一次世界大戦後になると、日本自身が植民地宗主国として振る舞う姿が鮮明となり、その評価は「模範」と「抑圧者」の間で揺れ動いた。朝鮮や中国からは、日本への留学生や亡命者が流入し、東京や上海は民族運動家たちが交流する場となった。日本の軍人や官僚の一部には「アジア解放」を掲げる言説もみられたが、実際には自国の勢力拡大と不可分であり、被支配民族の希望とはしばしば齟齬をきたした。
歴史的意義
以上のように、日本の対外進出と植民地支配の展開は、朝鮮の三・一運動や中国の五四運動をはじめとするアジア諸地域の民族運動と密接に関係していた。日本は列強支配に挑戦する存在であると同時に、自らも帝国主義の一翼を担う存在であり、この二重性がアジアの人びとの複雑な対日感情を生み出した。日本の動きと民族運動をあわせて考察することは、単に日本史・世界史の一エピソードを理解するにとどまらず、近代アジアにおける「解放」と「支配」の構図、そして民族国家形成のダイナミズムを多面的に捉えるうえで重要である。