政党内閣(日本)
政党内閣(日本)とは、衆議院で多数を占める政党の党首が首相となり、その政党の議員を中心に組織された日本の内閣を指す用語である。明治憲法体制のもとで藩閥・官僚が主導した内閣に対し、議会多数派政党を基盤とする点に特徴があり、特に大正デモクラシー期の政治的到達点として位置づけられる。原敬内閣以降、政党を基盤とする内閣が相次いだが、軍部や官僚の影響力も大きく、必ずしも「純粋な」政党支配が貫徹していたわけではない。それでも、日本の近代における議会政治・政党政治の展開を理解するうえで中心的な概念となっている。
政党内閣の定義と特徴
政党内閣は、衆議院の多数派を握る政党を基盤に、首相および主要閣僚がその政党の幹部・有力議員によって占められる内閣である。明治憲法下では、天皇大権に基づき元老が首相候補を奏薦し、藩閥・軍部・官僚が内閣を主導することが多かったが、政党内閣の成立は、こうした「超然内閣」と対照的に、議会勢力に一定の政治的正当性を与えることになった。
- 首相は与党第一党の党首または指導的政治家であること
- 閣僚の多くが与党の衆議院・貴族院議員から任命されること
- 衆議院多数派を失えば内閣が退陣に追い込まれること
- 政権運営が選挙・政党間競争と密接に結びつくこと
このような特徴から、政党内閣は、日本版の議院内閣制への接近形態とみなされ、後の戦後憲法下の政党内閣制の先駆的経験として評価される。
成立の背景―藩閥政府から政党政治へ
明治憲法体制では、山県有朋ら薩長出身の指導者が藩閥政府を形成し、政党勢力をしばしば抑圧した。これに対し、民権派の流れを汲む政党勢力は、議会開設後も予算審議などを通じて政府と対立し、やがて政党と藩閥の提携による妥協も試みられた。隈板内閣と呼ばれる第1次大隈重信内閣は、短命に終わったものの、政党を基盤とした内閣形成の先駆けとされる。その後、立憲政友会を率いる原敬が台頭し、政党が官僚・地方名望家・財界と結びつきながら全国的な組織を整えていくにつれて、本格的な政党内閣成立の条件が整っていった。また、2度にわたる護憲運動は、藩閥・官僚内閣に対抗し、議会多数派に基づく政権を求める世論を高める役割を果たした。
原敬内閣と本格的政党内閣の誕生
1918年、米騒動を背景に成立した原敬内閣は、立憲政友会総裁の原敬が首相となり、そのほとんどの閣僚を同党の議員で固めた点で、日本における最初の本格的政党内閣とされる。原は「平民宰相」と呼ばれ、地方行政の改革や選挙区改正などを通じて政友会の勢力基盤拡大を図った。他方で、選挙干渉や金権政治も指摘され、政党内閣が必ずしも清廉な政治を保障するわけではないことも露呈した。それでも、原内閣の成立は、政権担当能力を備えた近代的政党の登場を象徴し、日本の近代政治史における大きな転換点となったのである。
憲政の常道と政党内閣の展開
原敬暗殺後、政党内閣は一時的に後退したが、1924年に護憲三派内閣を率いた加藤高明内閣の成立以降、衆議院で多数を占める政党の党首が首相となる慣例が確立していく。これは「憲政の常道」と呼ばれ、政党政治が議会の多数派原理に基づいて運営されるべきだという規範が共有されるようになったことを示している。
普通選挙法と政党内閣
加藤高明内閣のもとで制定された1925年の普通選挙法は、納税資格を撤廃し、25歳以上の成年男子すべてに選挙権を与えた法律であり、政党内閣期の重要な制度改革である。これにより有権者数は飛躍的に増大し、選挙における大衆動員が一層重要となった。同時に、同年には治安維持法も制定され、社会主義・共産主義運動に対する弾圧が強化されるなど、自由化と統制強化が併存する矛盾した側面もみられた。
政党内閣の限界と崩壊
政党内閣期には、一見すると議会主義が定着したかに見えたが、実際には財界・官僚・軍部との力関係の中で政党の自立性は限定されていた。世界恐慌後の経済不況や農村の困窮に十分に対応できなかったこと、選挙における金権腐敗や派閥抗争が続いたことは、政党そのものへの不信を高める要因となった。1932年の五・一五事件で、海軍青年将校らによって首相犬養毅が暗殺されると、政党内閣は事実上終焉し、以後は軍部・官僚が主導する挙国一致内閣へと移行していく。こうして、憲政の常道と呼ばれた政党内閣の慣行は、わずか十数年で途絶することになった。
歴史的意義
政党内閣期は、軍部台頭により短命に終わったものの、日本の近代政治が議会多数派と政党を軸に政権を形成しようとした重要な試行の時代であった。ここで培われた選挙運動のノウハウや議会での与野党攻防の経験は、戦後の政党内閣制にも継承されている。他方で、限られた有権者(成年男子)にのみ政治参加を認めたことや、金権的な選挙・派閥抗争を改められなかったことは、政党内閣が大衆の信頼を十分に獲得しえなかった要因ともなった。したがって、政党内閣は、日本の民主政治の可能性と限界を同時に映し出す歴史的経験として理解されている。