推古天皇(額田部皇女)|日本初の女性天皇,聖徳太子

推古天皇(額田部皇女)

推古天皇(額田部皇女)は、敏達・用明・崇峻の前3代の天皇と同じ世代に活躍した女帝である。40歳前後のときに即位した。父は欽明天皇と母は蘇我堅塩媛(きたしひめ)である。敏達天皇の妃となり、2男5女をもうけた。蘇我氏の血をひきながら、蘇我氏との血の交わりを意識的に絶とうとした敏達天皇の配偶者となったことから、蘇我系と非蘇我系を結びつける役割を果たした。

目次

推古天皇陵

推古天皇陵

推古天皇の即位

592年、蘇我馬子(そがのうまこ)によって殺害された崇峻天皇の後継に、額田部(ぬかたべ)皇女が即位し、初めての女帝として、推古天皇となる。このとき39歳であった。即位した要因は性別を問わず世代を重視した皇位継承の原理にしたがったためである。また、531年に即位した欽明天皇の時代以来、大王の宮へ物資を貢納し、人を奉仕させる伴造・部民制(とものみやっこ・べみん)が全国に拡大され、天皇には外交・戦争の指導能力より、これをたくみに統御できる執政能力が求められてきた。こうした状況に年齢的・人格的成熟がしており、執行能力のすぐれた推古天皇が適任であったからである。

聖徳太子の推挙

593年、推古天皇の即位に伴い、天皇の甥にあたる聖徳太子(厩戸皇子)が、国政に参画した。推古天皇、蘇我馬子の推挙によるものだと言われる。最高執政官である大臣には、前代にひきつづき蘇我馬子を再任したが、聖徳太子(厩戸皇子)は内外政治の難局に対応するため、王族代表として選ばれた。聖徳太子(厩戸皇子)の国政参画は、天皇の政務が拡大・複雑化し、一部を譲渡・分担しなければ遂行が困難になったため、だと推測される。

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