幕末期の貿易
幕末期の貿易とは、19世紀半ばの鎖国体制が緩み始めた日本において、欧米諸国との通商が本格的に展開された時期の貿易取引を指す。長らく国を閉ざしてきた江戸幕府であるが、アヘン戦争や黒船来航などを背景として国際的な圧力が増大し、開国の機運が高まっていった。そこで幕府は、日米修好通商条約を結ぶのに続いて、フランス、オランダ、イギリス、ロシアと安政の五カ国条約と呼ばれる、修好通商条約を結び、鎖国が終わるとともに貿易が活発になった。国内需要だけで回っていた日本に国外との貿易は通貨や流通に大きな変化をもたらした。この時期の貿易は、日本が従来保持してきた自給的な経済構造を大きく変化させた点で重要である。特に雑穀・水油(菜種油)・蝋(ろう)・呉服・生糸などの輸出は国内価格の物価冒頭がおこる。また、対外収益の獲得は、諸藩の財政を潤し、武士階級や商人たちの経済活動に新たな道を開いた。一方で、輸入品として大量に流入した織物や軍艦、兵器などは国内産業に競争圧力を与えるとともに、西洋の先端技術が急速に導入される端緒ともなった。

江戸時代の庶民の家
開国の背景
幕末の日本が開国への道を歩んだ背景には、アジア周辺に進出した欧米列強との外交上の緊張があった。アメリカ合衆国は太平洋航路の中継地として日本の港湾を求め、ペリー提督の艦隊を浦賀に派遣して通商を迫った。イギリスやロシア、フランスなども極東に関心を寄せ、日本を開国させる動きを強めていた。こうした外圧の高まりに対し、幕府内部では開国派と攘夷派が対立しつつも、通商によって財政難を打開できるとの期待が生まれ始めていたのである。
安政五カ国条約の締結
開国を決定づけたのが、1858年にアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間で結ばれた安政五カ国条約である。これらの条約によって、日本は横浜や長崎、函館などの港を開き、外交特権を認める形で本格的に国際貿易を開始することとなった。しかし、不平等条約の性格が濃かったため、関税自主権の制限や領事裁判権の承認など、日本に不利な条件も含まれていた。こうした状況は後の明治政府が通商条約改正を目指す一因にもなった。
主要輸出品とその影響
幕末期の対外貿易において日本の主要輸出品は生糸、茶、海産物などであった。特に生糸は欧米での需要が高く、開国後に急速な輸出拡大を見せた。生糸の海外輸出は諸藩の財政再建を後押しし、農村部にも副業の形で製糸業が広まった結果、養蚕業が地方経済を活性化させる要因となった。しかし、品質のばらつきや流通経路の未整備などの課題も多く、幕府や諸藩は輸出品の品質管理や関税の取り扱いをめぐり、外圧との調整を余儀なくされた。
主要輸入品の種類
一方の輸入品としては、綿織物などの繊維製品が大きな比重を占めていた。欧米からの大量かつ安価な織物の流入は、日本国内の伝統的な織物産業に競争的な圧力をもたらしたが、その半面で庶民の衣生活を豊かにし、流通業者にとっては商機ともなった。また、軍艦や大砲、ライフル銃などの軍事用品も積極的に輸入され、幕藩体制の軍事バランスを一変させる要因となった。さらに時計やガラス製品、医学書などの西洋技術や文化を伝える多種多様な物品がもたらされ、日本人の生活や知識レベルに大きな変容をもたらした。
居留地
日米修好通商条約を含む、安政の五カ国条約に基づいて、横浜・長崎・箱館には外国人のための居留地が設けられることになる。外国人居留地には西洋建築の建物が並び、それに伴い、西洋文化が根付くようになる。なお、外国人居留地では問屋を通さず、直接外国との商談を成立することができた。そのため直接取引によって江戸の営業の独占権を与えられた株仲間に対抗する商人が現れ始めた。また、居留地では貿易窓口だけでなく、協会、ホテル、写真屋、レストラン、ガス灯、新聞社、テニスコート、劇場、競馬場などが作られ、欧米文化が日本に入り込むようになる。
港湾の発展と物流変化
幕末から明治にかけて整備された港湾は、日本の物流革命を象徴する存在である。例えば、下記の港は多くの外国船が寄港し、貿易額拡大に大きく寄与した。新たな港湾施設の建設や海運会社の誕生により、物資の流通効率が高まり、地方の産品が海外市場へ直結する機会も格段に増加したのである。
- 横浜:イギリス商館を中心に、貿易の最先端を担った
- 長崎:江戸時代からの海外交易の伝統を生かし、近代造船所の建設も進んだ
- 函館:北洋漁業と併せて物資交換の要衝となり、ロシアとの取引も盛んだった
横浜港
日米修好通商条約の結果、当初は東海道に面した神奈川に作る予定だったが、外国人と日本人の接触を嫌った井伊直弼は各国の反対を押し切り、横浜に港を作った。以降、横浜港は日本の代表的な貿易の玄関口として大きな役割を果たした。横浜には外国人居留地や貿易事務を取り扱う関税の役割を果たす貿易運上所が作られた。横浜港にはイギリスのジャーディン・マセソン商会、アメリカのウォルシュ・ホール社、政府御用商人の三井などが並んだ。なお、アメリカで南北戦争が開始するに伴い、横浜港の取引の多くははイギリスが占めた。

輸出品

輸入品
物価の高騰
貿易の自由化は、日本の輸出品の主製品であった生糸、茶、蚕卵紙などは生産が追いつかず、国内向けのものも品不足となり、物価が高騰する。さらに、海外からは機械生産された安価な綿織物が大量に輸入され、国内市場を圧迫。流通のバランスが崩壊し、物価高騰に拍車をかかり、住民が苦しむこととなる。
五品江戸廻送令
幕府は江戸問屋の保護と流通政策の保護のため、1860年3月2日、雑穀・水油(菜種油)・蝋(ろう)・呉服・生糸の5品について、直接地方から横浜へ送ることを禁じる五品江戸廻送(ごひんえどかいそう)令を発した。しかしながら効果はほとんどなく、在郷商人の直接取引を規制することはできなかった。
金銀の海外流出
金銀比価が日本では1対5に対し、外国では1対5であったため、大量の金が流出し、大量の銀が流入した結果、日本の経済が混乱した。そのために幕府は金の含有量を減らした万延小判を鋳造したが、これがより一層の物価高騰を招くこととなる。
売込商
外国人へ輸出するため、外国と直接取引しようとする商人が現れた。流通が変わるため、問屋と対立する。代表としては毛糸を売り込んだ原善三郎がいる。生産者と外国人の間にはいる仲買商人も現れた。八王子の生糸市場の流通経路は、絹の道と呼ばれた。
引取商
外国人貿易商人から輸入品を買い、日本で売りさばいた商人で、横浜はもとより神戸・長崎にも見られた。