宇野宗佑|在任69日で退陣した第75代首相

宇野宗佑

宇野宗佑(うの そうすけ、1922年〈大正11年〉8月27日 – 1998年〈平成10年〉5月19日)は、日本の政治家であり、第75代内閣総理大臣を務めた人物である。滋賀県出身の彼は、自由民主党において中曽根派の要職を歴任し、防衛庁長官、科学技術庁長官、行政管理庁長官、通商産業大臣、そして外務大臣といった閣僚ポストを渡り歩いた実力者であった。1989年にリクルート事件の影響で竹下内閣が退陣に追い込まれた際、政治的クリーンさと外交手腕を買われて後継の首相に選出された。しかし、就任直後に発覚した女性スキャンダルや、新設された消費税に対する国民の反発により支持が急落した。結果として、同年7月の参議院選挙で自民党が歴史的大敗を喫し、在任期間わずか69日で退陣を余儀なくされた。この短命政権は、平成以降の日本政治における激動の幕開けを象徴する出来事として記憶されている。

若き日の苦難と政治への志

宇野宗佑は、滋賀県野洲郡守山町(現在の守山市)の代々続く造り酒屋「宇野酒造」の長男として生を受けた。彦根高等商業学校を卒業後、神戸商業大学(現在の神戸大学)に進学したが、第二次世界大戦の激化に伴う学徒出陣により、政治や学問の道を一時中断して出征した。敗戦後、彼はソ連軍によって拘束され、シベリアの酷寒の地で約2年間にわたる過酷な強制労働に従事する「シベリア抑留」を経験した。この死と隣り合わせの生活の中で、彼は「生きて日本に帰れたら、平和な国づくりに貢献したい」という強い決意を固めたとされる。帰国後、家業を継ぐ一方で地元の青年団活動に尽力し、1951年に28歳の若さで滋賀県議会議員にトップ当選を果たした。県議を2期務めた後、1960年の第29回衆議院議員総選挙において旧滋賀県全県区から出馬し、国政へと進出した。このシベリアでの体験は、後に彼の著書『ダモイ・トウキョウ』として結実し、文人政治家としての名声を高める一助となった。

中曽根派の幹部としての飛躍

国会議員としての宇野宗佑は、中曽根康弘を師と仰ぎ、一貫して中曽根派(風見鶏)の重鎮として活動した。彼は緻密な実務能力と、多方面にわたる政策通としての顔を持ち、党内でも「政策の宇野」として一目置かれる存在であった。特に科学技術や防衛といった専門性の高い分野での評価が高く、中曽根内閣では外務大臣に抜擢された。外相時代の宇野宗佑は、英語が堪能であったわけではないが、持ち前の誠実さと教養を武器に各国首脳との信頼関係を築き上げた。1989年にサミット参加を控えていた時期、自民党はリクルート事件の渦中にあり、有力候補者のほとんどが事件に関与していたため、派閥の領袖級が軒並み後継から脱落した。そこで、金銭的なクリーンさが際立っており、かつ外相として国際会議への出席が予定されていた彼に、棚ぼた的な形で政権の座が回ってきたのである。1989年6月2日、宇野宗佑は第75代内閣総理大臣に指名され、新しい時代のリーダーとしての期待を背負って登板した。

宇野政権の短命と参院選の大敗

期待を集めて発足した宇野宗佑内閣であったが、その前途は多難であった。就任からわずか数日後、サンデー毎日が神楽坂の芸者による告発記事を掲載し、宇野宗佑の女性問題が白日の下にさらされた。当時の社会情勢において、政治家の私生活がこれほどまでに厳しく問われることは稀であったが、リクルート事件で政治不信が極限に達していた国民、特に女性有権者の怒りは凄まじかった。これに加えて、前内閣が導入を強行した消費税に対する不満や、農産物の輸入自由化に伴う農家の離反が重なり、内閣支持率は一気に危険水域まで低下した。こうした逆風の中で迎えた1989年7月の第15回参議院議員通常選挙において、社会党の土井たか子委員長による「マドンナ旋風」が吹き荒れた。自民党は結党以来初めて参議院で過半数を割り込むという壊滅的な敗北を喫し、宇野宗佑は敗北の責任をすべて引き受ける形で退陣を表明した。在任69日は、当時の憲政史上4番目の短さであった。後任には、同じくクリーンなイメージを持つ海部俊樹が選ばれることとなった。

文人政治家としての素顔と多才な趣味

政治家としての晩年は短命に終わったものの、宇野宗佑は「文人政治家」としての評価が高い人物であった。彼の趣味は非常に幅広く、ピアノやヴァイオリンの演奏、油絵、書、そして俳句など、いずれも玄人はだしの腕前であった。特に俳句においては、首相在任中も多忙な合間を縫って作句に励み、自身の心情を五七五に託した。外交の場においても、ピアノを自ら演奏して各国首脳と打ち解けるなど、従来の日本の政治家には見られなかった洗練された国際感覚を発揮した。また、シベリア抑留の経験を風化させないために、平和の尊さを訴え続ける執筆活動も継続した。退任後も衆議院議員として活動を続け、地元滋賀県の発展や、後進の育成に努めた。1998年、肺がんのため地元守山市の病院で75歳の生涯を閉じた。宇野宗佑の死後、彼が愛した守山市には記念館が整備され、多才な文化人としての足跡を今に伝えている。師である竹下登からはその誠実さを高く評価されていたが、あまりにも時代が悪かった「悲劇の宰相」という側面も否定できない。

宇野宗佑の主な略歴と役職

年次 主な出来事・役職
1922年 滋賀県守山町(現・守山市)に生まれる。
1943年 神戸商業大学在学中に学徒出陣。戦後、シベリアに抑留される。
1951年 滋賀県議会議員選挙に初当選(2期務める)。
1960年 第29回衆議院議員総選挙に初当選。
1983年 中曽根内閣にて行政管理庁長官として入閣。
1987年 竹下内閣の外務大臣に就任。
1989年6月 第75代内閣総理大臣に就任。
1989年8月 参院選敗北の責任を取り、内閣総辞職。
1998年 滋賀県守山市にて死去。享年75。

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