存在するとは知覚されることである。 esse est percipere バークリー
「存在するとは知覚されること」だという哲学者バークリーの言葉。イギリス経験論及び唯心論に立つバークリーは、存在することを知覚されることだとした。独立に心の外に実在する外的世界は存在せず、存在するのは主観的な観念だけだと考えた。人間の知識の対象を観念と捉え、観念が存在するとは知覚されることであるとした。この思想の背景には、実在する外的世界を前提とした懐疑主義や無神論への反駁という意図がある。
観念論
通常、我々が物体に属しているとされる、大きさ、位置、形状は我々の感覚によって直接的に与えられる観念ではない。それらは我々の過去の習慣と経験、視覚による観念と触覚による観念とを結合して判断するからにほかならない。通常直接に見る考えている物体の空間的大きさはこのような観念の複合にすぎない。そして、その観念をひとつひとつ取り除いていけば、なにも残らず、物体の存在とは実は知覚されるかぎりにおいてでしか、存在できないといえる。このようにしてバークリーは物体の存在を否定したが、それらを知覚する主体である精神の存在は否定しなかった。
バークリー哲学の名称
バークリーの哲学は非物質主義(物質の存在を否定)、精神主義(唯一認めるものは精神的なもの)、観念論(近くによって生じる観念)など、いろいろな言葉で形容されたことから彼の哲学の特殊性がわかる。
神による知覚
バークリーによれば、物質は知覚されない限り存在できることはできない。では、その対象が誰にも知覚されないとき、なにも存在していないのか。そこで、バークリーは神の存在を出すことにより、その疑問を避ける。神はすべてを、その無限の精神によって知覚しつづける、それゆえにすべては存在できる、とした。