大塩平八郎 おおしおへいはちろう
大塩平八郎(1793〜1837)は江戸後期の陽明字者。主著は『』中斎と号す。主著は『洗心洞皐月』。大阪町奉行与力。38歳で引退後、塾「洗心洞劄記」で陽明学を教えた。天保の大飢饉における幕府の処置に抗議し、弟子や同志と武力蜂起を起こしたが、鎮圧され自殺した。
目次
大塩平八郎の略年
1793 大坂天満に生まれる。
1805 与力見習いとして出仕。
1817 洗心洞塾を開く。
1820 このころ、目安役となる。
1824 頼山陽と出会う。
1828 王陽明三百年祭「祭文」起草。
1837 2月、挙兵決起(大塩平八郎の乱)。3月、自決。
大塩平八郎の生涯
大塩平八郎は、大阪に役人の子として生まれる。幼くして両親を失い、祖父の後を継いで、大坂町秦行の与力となる。与力在職中は、徹底した洗練潔白さと民衆を苦しめる悪に対して厳しい対応を行った。邪教集団の取り締まりや富豪と結托した同僚与力の組織犯罪を暴くなどの功績を挙げた。
37歳で、与力職を養子に譲って退職し、与力時代から続いていた家塾「洗心洞」で武士を中心に陽明学を教えた。陽明学に基づいた、正直を修め、政治刷新を含む独自の学風を築き上げた。正直かつ峻厳な学問と教育に心を寄せるものも多く、奉行所の与力・同心、医師の子弟や摂津河内の豪農がその門下として学問を行った。大塩平八郎は、農民を愛し、近隣の村や町場に出講し、諸藩士とも交流した。天保の飢饉のさなか、私財を投じて貧民救済に当たるが、1837年、万策尽きて、町奉行らの施策と大商人の不正に抗議して大塩の乱と呼ばれる武力蜂起をおこすのも失敗し、大塩平八郎は自害に追い込まれる。大塩平八郎の生き方は自らの学んだ陽明学を実施し、悪を認めず、貧窮を救った一生であった。
洗心洞
1817年、大塩平八郎が奉行所の役人のころから陽明学を講じいたが、38歳で奉行所の役人を退職し、私塾 「洗心洞」を開校する。弟子には藩士が多く、陽明学を基本とした、仁政のあり方を問う政治色の強い塾として武士を中心に抗議を行った。
天保の大飢饉の救済策
天保の大飢饉を受け、大塩平八郎は飢饉に苦しみ民衆を救うため、自らの蔵書1200部を河内屋嘉兵衛に売り払い、銀40貫896匁を得た。これと同時に、施行札を1万枚印刷し、門弟らが配布。1837年2月6-8日まで大坂市中の本屋会所で、金1朱と引き替えた。
鴻池家
鴻池家は豪商である。伊丹の酒造で財産を築き、海運、両替商、大名貸で富を気づいた。大塩平八郎は鴻池家に貧窮救済を願い出たが、これを拒否。一方で米を買い占めて暴利をあげた。
大塩の乱
1837年、大塩平八郎は天保の大飢饉を受け、大阪町奉行や地域の豪商に貧窮する民衆の救済を申し出たが、受け入れられることはなかった。それどころか、大阪町奉行は江戸に米を送り、豪商は営利のため米の買い占めを行った。この現状に激怒し、大塩平八郎らは救民の旗の下、武力行使を行うが、鎮圧される。大塩平八郎は鎮圧を受け自害し、その一生を終えた。