夏目漱石|近代日本の文学,近代的自我

夏目漱石

夏目漱石は、近代日本の代表的作家で、文学を通して近代的自我のあり方を追求した。東京牛込の名主の末子で、本名、金之助。生後すぐに里子に出され、そこから養子に出され、14歳で実母と死別するなど家庭的に恵まれない幼少年期を余儀なくし、人間の内面を見つめざるを得ない環境の中で成長した。二松学舎、第一高等学校から東京帝国大学に進学し、英文学を専攻し、卒業後、東京専門学校(現在の早稲田大学)や東京高等師範・松山中学・五高で教鞭をとる。
33歳でイギリスに留学したが、そこで他人本位の自分のあり方に苦悩し、神経衰弱に苦しめられながらも「自己本位」にめざめる。帰国後、一高・東大で講義をするかたわら、正岡子規の雑誌『ホトトギス』に『我が輩は猫である』を発表し、その後、『坊ちゃん』『草枕』などの高踏的な作品で名声を得る。教職を辞してからは、朝日新間社に入社するが、その後も著作活動を続け、『三四郎』、『それから』、『門』の3部作、『こころ』『明暗』(未完)など意欲的な作品を発表した。人間のエゴイズムを深く見つめ、近代的自我のあり方を鋭く追求した。また、『現代日本の開化』『私の個人主義』など、一連の講演を通して、近代日本と日本人の生き方を模索するなど、すぐれた文学者・思想家として活動し、49歳で生涯を閉じた。

夏目漱石

夏目漱石

夏目漱石の思想

夏目漱石が活躍した時代は、日本が欧米列強に追いつくため、経済や学問、生活様式でさえ、あらゆる分野で西欧化を進展させていた時代であった。一方で、急激な西欧化が矛盾や葛藤、ひずみを生じさせる時代でもある。表面的な近代化は成し得ても、日本の伝統思想と西洋近代思想、利己主義、個人主義との矛盾に直面し、知識人たちもその打開への道が開けない不安と孤独を抱えていた。
そうした状況の中で夏目漱石の思想は、近代社会の形成原理としての近代個人主義思想であった。それは、自己本位に根ざす個人主義であり、倫理性を内に持った個人主義であった。近代日本の開化を内発的に転換させ得る日本人の生き方を見出したが、晩年には、自我の確立とエゴイズムの克服という矛盾に苦闘した末、エゴイズムから生じる一切の執拗を超え、東洋的・宗教的な世界の理法に従って生きる「則天去私」という無我の境地を願うにいたった。

外発的開化

外発的開化とは、外部の力で開化・発展することである。

ただ器械的に西洋の礼式などを覚えるより外に仕方がない。自然と内に発酵して醸された礼式でないから取ってつけたようではなはだ見苦しい。これは開化じゃない。開化の一端ともいえないほどの些細な事であるが、そういう些細な事に至るまで、我々の遣っている事は内発的でない、外発的である。これを一言にしていえば現代日本の開化は皮相上滑りの開化であるという事に帰着するのである。

西洋化による不安

西洋文明を受け入れることで、日本人の生活や心情から何が失われたか、結果的に陥っている不安や孤独、虚無状態といった同時代への批判的精神を作品の中で展開した。

自己本位

自己本位とは、他者に従属する生き方ではなく、自己の個性に即し主体的に開化する姿勢のこと、伝統的な社会関係から解放され、自我の内面的要求に基づいて生きようとするあり方である。夏目漱石は、旧来の日本人の生き方を、自己を見失い、他者に迎合する浮き草のような他人本位の生き方とみて否定し、自我の追求に真正面から向き合うことを主張した。それは、他者をかえりみないエゴイズムではなく、論理性に深く根ざした真の自我の確立をめざすものであった。

今までまったく他人本位で、根のない浮草のように、そこいらをでたらめに漂っていたから、駄目であったということにようやく気がついたのです。私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それが理が非でもそうだとしてしまう、いわゆる人真似するを指すのです。(『私の個人主義』)

私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気概が出ました。今まで茫然と自失していた私に、此所に立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自己本位の四字なのであります。
自白すれば、私はその四字から新たに出立したのであります。そうして今のようにただ人の尻馬にばかり乗って空騒ぎをしているようでは甚だ心元ない事だから、そう西洋人ぶらないでも好いという動かすべからざる理由を立派に彼らの前に投げ出して見たら、自分もさぞ愉快だろう、人もさぞ喜ぶだろうと思って、著書その他の手段によって、それを成就するのを私の生涯の事業としようと考えたのです。(『私の個人主義』)

個人主義

個人主義とは、他人本位ではなく自己本位の個人主義のことである。

則天去私

則天去私とは、小さな私を捨て去り、天(大我、自然、運命)に従って生きるという姿勢で、夏目漱石の晩年に唱えられた。小さな私を去って、普遍的な大我(自然)の命ずるままに自分をまかせるという東洋的・宗教的な心境を指す。近代的自我の確立の末に到達した境地で、運命に甘んじて、静かに一切を受け入れる態度である。夏目漱石は、自我とエゴイズムの葛藤を『こころ』の中で描写し、則天去私の考えを『私の個人主義』において示した。

『現代日本の開化』

『現代日本の開化』は夏目漱石が1911(明治44)年に行った講演で、近代日本の文明の特質を論じている。夏目漱石は、日本の開化を、「西洋の開化は内発的であって、日本の開化は外発的である」とのべ、西洋文明の内発的開化(自然発生的な文明の発展)に対して、明治日本の開化を外発的開化(外国文明の圧力により、やむを得ず開始された急激な文明開化)ととらえた。そのため、日本人は自己を見失い、右往左往し、虚無感や不安を抱えて生きている、と論じた。

『私の個人主義』

『私の個人主義』とは、夏目漱石が1914(大正3)年に行った講演である。自己本位の立場にめざめるまでの経緯を語り、自己本位に根ざす倫理な個人主義の確立を力説した。

『我輩は猫である』

『我輩は猫である』(1905 明治38)は夏目漱石の処女作である。家に住む猫を主人公に、猫の視線から人間の生活ぶりをユーモラスに批評した。

『坊っちゃん』

『坊っちゃん』(1906年 明治39)夏目漱石の小説である。愛媛県の松山中学(現在の松山東高校)での教師の体験をもとに、東京から四国の旧制中学へ赴任してきた無鉄砲だが正義感の強い青年教師が、校長の狸教頭の赤シャツ、彼らの腰巾着の野だいこを向こうにまわして、赤シャツが英語教師うらなりの婚約者マドンナをよこどりしたことに憤り、数学教師の山嵐とともに騒動をくりひろげる。

『三四郎』

『三四郎』(1908年 明治41)は夏目漱石の小説である。熊本の高等学校を卒業して東京の大学に入るために上京した純朴な青年の小川三四郎の目を通して、当時の日本の社会や人びとの生き方を批評したものである。三四郎を中心に、母親のいる郷里の熊本、先輩の野々宮や広田先生の学問の世界、恋心をいだいた美蘭子の甘美な世界が展開する。美蘭子はストレイシープ(迷える子羊)という謎の言葉を三四郎に投げかけて去っていく。

『それから』

『それから』(1909 明治42)は夏目漱石の小説である。定職につかず、親からの仕送りで暮らす大助が、かって愛しながらも友人の平岡に譲った恋人の三千代と再会し、不幸な三千代に同情する内に愛するようになり、世間からの非難と孤立を覚悟のうえで三千代とともに生きる決意をする。大助のような定職を持たない知識人を、漱石は高等遊民と呼んだ。

『門』

『門』(1910 明治43)は『三四郎』『それから』に続く三部作。宗助は友人の安井から御米を奪っていっしょに暮らすが、友人へのうしろめたさを感じながら、世間から身を隠すようにひっそりと二人で暮らしている。二人だけのわびしい生活の中で悩む宗助は、何かを求めて禅寺の門をたたくが、開けてもらえず、「たたいても駄目だ。独りで開けて入れ」という門番の声だけが聞こえる。

『行人』

『行人』(1913 大正2)に発表された夏目漱石の小説である。自分の妻さえ信じられない主人公一郎の深い孤独と人間不信の苦悩を描いている。人間の奥深い孤独と我執を描き、人間存在の本質を追究した。

『こころ』

『こころ』(1914 大正3)は夏目漱石の小説である。『朝日新聞』に連載され、翌年単行本として出版された。「私」に対する「先生」の遺書という形で、父親の残した財産を叔父に取られたことから人間不信におちいったこと、その自分が友人を裏切って下宿の娘との恋愛に勝ち、その友人は自殺したことを語る。近代的自我が直面する、内なるエゴイズムとの葛藤を描き、多くの読者の共感を呼んだ。

『明暗』

『明暗』(1916 大正5)は夏目漱石の最後の未完に終わった小説。則天去私の心境から、人間のエゴイズムをありのままに見つめ、善と悪がからむ人生の明暗を描き、暗さから明るさへの道が模索されている。1910年に伊豆の修善寺の温泉で保養中に吐血し、生死の境をさまよったことなど、漱石自身の体験が材料になっている。

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