共和政ローマ(1/2)|ローマの共和政の実現とその限界

共和政ローマ

もともとローマでは王政を採用していたが、前6世紀末(前509年)にエトルリア人の王を追放したのをきっかけに共和政を開始したと伝えられている。しかし、ローマの初期の共和政は、貴族が実権を握り公職を独占する貴族共和政であった。市民として認められるのは貴族のみであり、早期の段階から平民による階級闘争が展開され、時代が進むにつれ、平民らは権力をつけていったが、古代ギリシア都市国家アテネの民主主義ほどには、発展しなかった。(共和政ローマ(2/2)

目次

人種

ローマ人(イタリア人)は、インド=ヨーロッパ語系で、ギリシア人の南下とほぼ並行して、イタリア半島へ南下した。前16世紀頃、半島東南部の山岳地帯にウンブリア系が定着し、前11世紀末頃にラテン系が半島中西部の丘陵地帯ラティウム地方に定着した。ラテン人が建設した都市国家の一つローマが大帝国に発展した。

ラテン語

ラテン人が建設した都市国家がローマ帝国の原型であり、広い範囲でラテン語が用いられるようになった、そこからロマンス語と呼ばれる諸言語(フランス語・スペイン語・イタリア語など)が生まれる。

ティベル

ティベル川とはローマ市中を流れる川で、パラティヌスの丘とともにローマ市の象徴とされる。

ローマの始まり

ローマはティベル川流域のいくつかの丘陵のラテン人の集落として始まった。最初は王をおいた部族国家だったが、パトリキ(貴族)とプレブス(平民)にわかれ、パトリキ(貴族)は土地などの所有でプレブス(平民)を圧倒していたが、平民は隷属的な農民ではなかった。大部分は平民農民であったが、しだい商業が発展していく。

貴族共和政

ローマの王政期に軍事中心の市民団組織の原型が整えられ、民会も生まれた。前509年に専制的なエトルリア人の王が追放され、貴族共和政に移行していく。この頃、社会構成は自由民である貴族と平民、非自由民である奴隷からなる。

都市の形成

前7世紀末にエトルリア人の王によって丘の間の平地を広場(フォルム)とし、神殿・集会場などをもつ都市が形成された。

パトリキ(貴族)

パトリキ(貴族)は、完全な市民権を持つ大土地所有者であるが、後に元老院やコンスルなど共和政の要職を独占し、ローマの共和政の基盤となる。したがって実際の政治は、これら貴族に左右され、共和政といっても事実上は貴族政であった。貴族と平民との二つの身分に明確に区別され、前445年までは両身分間の結婚は許されなかった。

平民

平民は中小の農民や商人や職人を含んでいたと考えられ、軍隊では主力部隊を構成したが、政治的には完全な市民権(特に被選全権)をもたなかった。今最下層の身分として奴隷があったが、その長はローマの対外的発達と関係してしだいに増加した。

元老院

元老院は、有力貴族300人の貴族で構成された最高の立法・諮問機関である。最高決議機関として重要な地位を占め、任期は終身であった。定員はのちに増加した。

コンスル(執政官・統領)

コンスル(執政官・統領)は、王に代わる執行機関として実際の行政・軍事・司法を担当した最高政務官である。任期1年で無給で民会の一つであった兵員会で2名選出されたが、貴族が独占した。

ディクトル(独裁官)

ディクトル(独裁官)は、非常時の臨時職で全権を委任された独裁官である。元老院の提案でコンスルの1名が任命された。任期は6カ月で、再任は認められなかった。

民会

民会は平民の参加できる機関として、クリア会、兵員会、平民会などがあった。平民の権限は弱く、貴族と身分闘争が生まれる。

身分闘争

貴族の優勢に対する平民の不満は、共和政の成立直後の早期前494年には、政治上・経済上・社会上の平等権を要求する平民の身分闘争が始まり、その後、約200年間も続いた。貴族の支配は強く、古代ギリシアポリスのような民主化は最後まで起こらなかった。

  1. 本来国有地であるべき征服地を貴族が勝手に占有することに対する反感
  2. ローマの発展にともなって平民の人口が増加し、また平民のなかには商工業の発達により富裕化して、貴族に比肩する経済力をもつ者が現れた
  3. 平民の編成する重装歩兵がしだいに戦場において重要な地位を占めるにいたった
  4. 貧しい平民が借財に陥り窮地に追い込まれたが、政治的権利の獲得することにより打破しようとした

護民官

早くも前5世紀初め(前494)に、平民の権利を守る護民官が設置された。平民保護のための官職で、平民会の投票で選出された。身体は神聖不可侵とされ、元老院・コンスルの決定に対し拒否権を持った。初め2名、のちに増加し、前449年に定員10名となった。しだいに野心家の出世に利用されるようになった。

十二表法

前5世紀半ば(前451)には、ローマ最古の成文法である十二表法が制定された。法知識を独占した貴族に対する平民の抗争の法であり、旧来の慣習法が明文化され、12枚の板(材質不明)で公表された。内容は私権の保障など、民法が多く、貴族の慣習法悪用が制限される。

リキニウス・セクスティウス法

前367年、護民官のリキニウスとセクスティウスが制定され、コンスルの1名は平民より選出、公有地の占有を1人500ユゲラ(約125ha)に制限することが決まる。平民の勢力はおおいに伸展した。

ホルテンシウス法

ホルテンシウス法は、前287年、ディクタトルであったホルテンシウスが制定した法である。ホルテンシウス法により、あらゆる官職が平民に開かれた。また、平民会の決議が元老院の承認を要せず国法と認められることになり、平民は貴族とまったく同等の権利を行使することなる。

民主化の挫折

最高の主権はあくまでも元老院にあり、これが市民に対して大きな権威をもち国政を指導していた。共和政末期に近づくにつれて、市民権が拡大していったが、平民の多くは、ローマ市外に住んでいたため、民会に参加できず、平民が影響を及ぼすことは限定されていた。

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