倭の五王|大和朝廷の遣使,朝鮮進出の挫折

倭の五王

倭の五王は『宋書』など南朝の史書に見える5人の倭王である。讃(応神、仁徳、履中)・珍(反正か仁徳)・済(允恭)・興(安康)・武(雄略)。大和朝廷は、任那日本を拠点に朝鮮へ進出したが、敗退に終わる。日本は百済とくんで朝鮮半島の支配権をとどめておこうとしたものの難航、中国王朝に倭の五王と呼ばれる遣使を送り、その後ろ盾をもって朝鮮半島に勢力を残そうとした。倭の五王の違使は、413年から502年にかけて十数回行われ、その定してをはじめ『南斉書』、『梁書』などに集められている

南朝

5世紀の中国は南北朝の時代となり、先方では五胡十六国時代を経て、北魏が439年に華北を統一したが、江南では東晋が滅び、420年ごろから宋・斉・梁・陳という王朝が相次いで建国された。倭の五王は、南朝に対して遣使した。

倭の五王

倭の五王とは、讃(応神、仁徳、履中)・珍(反正か仁徳)・済(允恭)・興(安康)・武(雄略)のことで、それぞれ天皇の諡号や系譜から、仁徳(または履中)・反正・允恭・安康・雄略の諸天皇に比定されている。

武は、478年に宋の順帝に倭王武の上表文といわれる上表文をたてまつり、「使持節都督倭・新羅-任那・加羅·秦韓·慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の称号を与えることができ、朝鮮半島の支配の強化を試みた。しかし、562年任那日本への影響力は失われる。

遣隋使

倭の五王が送られた後、約100年後、600年~614年に小野妹子に代表される遣隋使が中国へ送られている。

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