井上馨(井上聞多)|イギリス公使館の焼き討ち, イギリス留学,伊藤博文内閣

井上馨(井上聞多)とは

井上明治・大正時代の政治家。長州藩出身。外務卿・外務大臣として条約改正交渉を担うなど近代日本政治史に大きな足跡を残した。

目次

井上馨(井上聞多)の生誕

天保6年(1835)11月28日、周防国吉敷郡湯田村(山口県山口市湯田)にて長州藩の地侍である井上光亨の次男に生まれる。長州藩の藩校である明倫館で学んだ。長州藩士である志道(しじ)家の養子となり(後に井上姓に復帰)、藩主の参勤交代で井上馨も江戸に向かった。江戸では江川太郎左衛門英龍の塾にて砲術を学び、藩主毛利敬親の小姓役ともなっている。

イギリス公使館の焼き討ち

文久2年(1862)、「攘夷」の志を持っていた井上馨は、久坂玄瑞・高杉晋作らと共に品川御殿山のイギリス公使館を焼き打ちにしている。

イギリス留学と長州藩の危機

文久3年(1863)、伊藤博文・井上勝・山尾庸三・遠藤謹助(「長州ファイブ」)と共にイギリスへ留学する。しかし、長州藩が諸外国からの攻撃にさらされるかもしれないという情報に接して緊急帰国を決意する。イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊による下関砲撃事件の講和交渉に高杉晋作伊藤博文と共に長州側の使者として参加した。元治元年(1864)9月、長州藩内の反対派に襲撃されて重傷を負う。高杉晋作の藩内クーデターに鴻城軍総督として呼応した。

明治・大正期の井上馨

明治政府の成立により、長州藩から初めての参与として参画する。当初は主に外交問題に当たった。明治4年(1871)、廃藩置県後の政府で大蔵大輔に就任する。しかし、尾去沢鉱山の私有について司法省から追及を受け、明治6年(1873)に辞職する。下野後の井上馨は益田孝らと先収会社(三井物産)を設立するなど実業に携わった。明治8年(1875)には、大阪会議を伊藤博文と共にセッティングした。政府に復帰した井上馨は、明治9年(1876)に特命副全権大使として江華島事件後の朝鮮に赴き、日朝修好条規を締結した。

伊藤博文内閣

明治11年(1878)、参議兼工部卿、次いで外務卿に就任する。第一次伊藤博文内閣でも、引き続き外務大臣となり、諸外国との条約改正交渉を進めていた。鹿鳴館での外交交渉などで欧化政策を進めていったが、条約改正案についての国民の反対運動により辞職した。
明治17年(1884)に伯爵に叙せられた。黒田清隆内閣では農商務大臣、第二次伊藤博文内閣では内務大臣、首相臨時代理を務めた。日清戦争では特命全権公使として朝鮮に駐在した。第三次伊藤博文内閣では大蔵大臣を務め、地租増徴案をめぐる憲政党への対応として超然主義(政府は政党の意見を反映させない)を捨てて伊藤博文と共に新政党を結成する動きを見せた。第四次伊藤博文内閣の退陣後、組閣の大命を受けるも辞退した。大正4年(1916)、死去する。

参考文献

『国史大辞典』「井上馨」(執筆:大江志乃夫)